神の言葉で綴られた”絵画的言語”である、私たちへのアバ父の深い愛に満ちた言葉。申命記5:12ー15
この世の中は、私たちに何を要求していますか?
”神に造られた”人間”では無い性質、姿、彼ら定義の、神のデザインからずれた忌まわしい姿や、関係や、異教の神々の教え、
勝手気ままな願望を生きる事、彼らルールの、彼らの編み出したいわゆる成功者理想像を生きる様、レールに乗せることを
奨励します。
自分と言う神に造られた性質の人を知り、神の造られた本当の
自分、自己像を生きる事を安全に教えてくれる人は本当に
少ないのです。なぜ?彼らも”イスラエルの神に造られた人間と言うもの、その生き方の詳細を知らない、神の性質に造られた本当の自分、本当の姿を知らないで、真実から逸れて失われたまま、神の目から見た正しい正確な自己像を知らないからです。
自分の考え、自分想像で考える人間とは何か?男女とは、夫婦とは家族と言う事は語れても、神が解説する”人間とは、
人間の生き方とは、人は神とどの様に関係を結び関わるのか?
と言う事に関して決して語れない。
神のデザインした世界の全貌が書かれたトラーを本当に知らなければそれを語れないからです。神が語られる事を知らなければ、
神が言われている事を解説出来ないのは当然です。
神の言葉の真相が書かれた教科書が分からない、教える教師が
居ないからです。
盲人が盲人を手引きするとは、まさに其の事です。
神の言葉=トラーの真髄、神の言葉の真髄を知らない人が、トラーを知らない人を導くと言う意味で書いてあるのです。
ある部分は真実である。なぜなら私たち、神に造られた人は、
神の性質DNAで綴られているから、ある部分の真実は、理屈抜きに分かる。でも神の言葉の、神のデザインの全貌は知り得ない、
分からない。どこから其の教え、概念が来るのか?
わからない。どうしてそうしてはいけないのか、そうするべきなのか、確固たる根拠が提示できないので、説明できない。
何故そうと言えるのか、それが正しい、それが不真実な生き方だと言う、其の根拠がどこにあるのか分からないからです。
トラーを知らないからです。
誰かの良しとするもの、誰かの掲げる”成功”の定義に照らし合わせたライフスタイル、目標、人生。
日本にある現代の流行り言葉=勝ち組、負け組もそんな
コンセプトの一部でしょう。じゃ金儲け、名声を得る事が出来る人が人生の成功者だとすると、もう聖書に書いてある人の結末なんてそれこそ悲惨そのものです。
創造主が、全ての人に対して、創造物に関する、又自分に関する神に関する全貌を伝えているのです。人間が神の世界を定義
する事はできないのです。神が言われた通りを聞くことだけが
人間に出来ることが最初に書かれています。
命の木からだけ、神の言葉だけを食べなさいと。
イエシュア ハ ”マシア”が私たちを、”奴隷”状態から解き放つためにパワフルな力強い御手で贖い出してくれた。
始めからイエシュアは存在しているでしょう。永遠の中に。
神だからです。途中からイエシュアが出現したのでは無い。
最初から書いてあります。そして紅海が割れた時も”今日救い=
イエシュアを見よ”とモーセが言ったあの言葉。イエシュア同じ
実態の救いを話している事に気がつけば分かります。2000年まえに突然現れたと言うのはローマの教えです。聖書では無い。
私たちは、もちろんエジプトには生まれなかったけれど、
異教の国=異邦人として生まれた。異邦人とは、”異教の神々に仕える人たち、本当の神を知らない人たち”と言う意味です。
エジプトでイスラエルが400年間と言う長きに渡る期間、
エジプトの王、偽の神々の奴隷であった状態から、イスラエルを解放するために神が乗り込んで来られた。
これも、もう一の”絵画的言語”で表された史実なのです。
神が私たちに第七日目を”特別に分かたれた日”として覚えなさいと言われました。神が言われたと言うところに意識を留めてずっと考える。人間が別の日が其の日だと決めて、そう宣言した事との違いが見えて来る。人間は神では無いし、神の権威も持ってない。勝手に言ってもそれは神の目には煙の様に軽く、無意味。
神直々、神の口から直接語られている事実を目一杯想像してみるのです。直接今も神が自分に語っている事に気が付いてみる。
神の言葉は永遠普遍だからです。神は生きているから。
神は私たちの内側に住まい、私たちも神の中に存在している事実をずっと考え続けてみれば見えてきます。
神の声の下=神の言葉の周波数の下に来て、神の言われている事がはっきりクリアーに聞こえる場所に来て、耳を目一杯全開
引っ張って、神の言葉を聞いてと書かれているのです。
神は人に、次は何を思い出す様に言われたのでしょう?
神である主=ありてあるお方が、力強い御手を持って、奴隷の国、偽の神から奪い取り、奴隷状態から贖い出し、引き出した。私たちは全員エジプトの奴隷であった。
契約の中に無い者、イスラエルの神の言葉、イスラエルの国籍も無い、割礼の無いもの、神の存在も知らないものだった。
エジプトの奴隷=偽の神々しか知らず、偽の自己像を生きさせられ、辛く、狭く、苦しく、悲しく、窮屈に生きていた。
又は、別のまやかしの楽しみで帳尻合わせていた。
本当の創造主を知らないまま、神との本当の関係、自分を知らない、又他者とも本当の関係の中に入れない状態だった。
そして、人の教えの奴隷だった。
あなたは、奴隷であったけれど、今はもう奴隷では無い、
わたしがあなたを贖い出したから、偽の主人=偽の神々=偽の神々の教えの奴隷では無い。その事をいつも思い出してと。
こんな素晴らしい事なのに、忘れるから思い出す必要がある?と
神は言われたのです。
私たちは今地上で暮らしていて、この世の編み出した理想、
目標、ゴールに適応、順応、迎合、一致、沿い、従わされてしまう環境にあることは、否めません。
絶えず誰かの教え、概念、考えを放り込まれ続けて、それを生きる様にされてしまいます。
周波数合わせる場所が違うと、途端にこの世の声、サタンの声が
頭上を駆け巡って、それに聞き入り、自分はどう仕様もないダメな人だと考え続ける、思わされて行きます。しかも信じる者の中から、この世と同じ声が聞こえてくるのです。
でも神が語られる事実はこの世が語る事とは全く違う。
ヘブンリー、神の目から見る、信じがたい事実を私たちに
伝えている。”私たちは、もう既にこの世の奴隷では無い。”
どうして?神が救い出して、贖い出してくださった事実を
知って受け取った人達だからです。あなたは聖別された者。
第一日目から第六日目を労働日と決めたのは神です。
人間ではありません。6日目の後に来る、第七日目は
”ギフト” ”プレゼント” ”贈り物”として祝福を互いに神の前で皆で分かち合うために与えられた日なのです。
何が起ころうとも、あなたはもう奴隷では無いよと神が言われて
いるその声に聞き入る。
続く