聖書の言葉、イエシュアの言われた事と人間の教えがマッチしない マタイ7章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ7:22 

その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、

わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出しあなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、

行ってしまえ』。

 

<この下りを読むと、イエシュア=神はなんでもかんでも

無差別、区別なく受け入れる方では無い事が書いてあります。

世の教え、なんでも受け入れるのが愛なのだと言う教えとは全く逆の事が書いてあります。神に属さないもの、人の目にはokに見える事でも、神にとっては混ぜ物=まがい物は絶対に受け入れないことがはっきり書いてあります。厳しすぎ?いいえ、嘘、偽り、偽物と一緒くたにされたら、人間が破壊されるからです。>

 

この箇所の最後の所、何度も書いていますが、”不法”とは、聖書の中の定義では文字通り、トラー無し=婚姻契約の中身の実態が無い、伴わない生き方、振る舞いをする者、トラーの内容を逸脱して行動している者と言う意味です。

 

トラー=神の提示した婚姻契約を生きているつもりでも、

トラーの中身、神の言葉=言われている事との真髄とはズレた事をしていると言うイエシュアの指摘です。

 

当時、イエシュアがこの言葉を言われた時、その登場人物とはもちろん100%トラーは終わりなどと言う人達は誰一人も居ない

世界での話なのです。この事実だけにでも目が開かれたら

見えてきます。世間一般に語られている教え、解説とは

全く異なる事が聖書には書いてあるからです。

 

4世紀にトラーを捨てよとした、ローマ皇帝の作った宗教の教えを信じている人は0人。そんな人は誰一人も居ない。

聖書はローマではなく、ヘブライ、イスラエルの神の言葉なのです。

 

トラーを捨てるなどと考える人も誰一人として居ない世界が、

聖書には書かれている事実に戻って読み直せば分かります。

 

もし、トラーは終わりとそんな事を唱える場合、どうなるか?

コミュニテイから、即座に100%追放されます。トラーを捨てる=神の言葉を捨てると教えるなら、それは聖書によれば”死”に値する罪だからです。かやの外、宿営の外に出てくださいと

言われる。皆を誤りに導くからです。

 

罪の定義も然り、トラーに対する違反、反逆、反抗、反則を聖書では”罪”と定義しているのですから、もしトラーがなくなれば、それこそイエシュアが言われた”無法”トラー無しの世界、

無法地帯と化すると言うことになるのが、聖書に書いてあることなのです。

 

よくよく、神の言葉の真実の点と点だけを繋げれば、

人の教えと神の教えが矛盾する、辻褄合わない、ゆえにマッチ

しないことに、気がつくはずです。

 

そこが神の言葉を曲げたローマの教え、神学とは全く異なる世界の話をしているのです。

 

そして、1世紀後半から、4世紀を経て、現代に至るまで、

”トラー”は終わったとするローマによる教えが造り上げられて

しまいましたが、その教えによれば、この聖書箇所は、

全く意味不明、何をイエシュアが教えようとしているのかの

意図が消え去ります。

 

イエスさまが言われたこと、教えたこと、生きて示した内容は、全てのわざは泡と化して、無意味、徒労に終わったことに

なります。イエシュアが教えていたのは、100%トラーの中身だからです。

 

なぜなら、”不法”=トラーが無い、トラー=神の婚姻契約の

中身を、実態を持って生きてない人達と言うのが大前提だからです。

 

そうすると、その”トラー”が終わりとする教えと、イエシュアがここで戒めている、トラー無しとする生き方をしている人に対しての警告、忠告内容は大いに無意味、矛盾である事になってしまう事が分かります。

 

1世紀後半から、神の言葉が人間の手により、神の言葉を、

大改造、大変革をした4世紀を経て、そのローマの神学、宗教の教えを根として現代の教えにつながっている。

 

それと比べてみると、この箇所に書かれている事、イエシュアの例え話を聞いていた1世紀の聴衆は、”トラー”を生きる人たちである事が前提であり、そのトラーを生きてるつもりが、神の意図、み旨とは逸脱した人間の教えをやっていることへの、警告であることが書かれています。

 

神の言葉=婚姻契約=トラーを生きているつもりであった。

神のみ旨をやっているつもりだった。でもズレていた。

”あなたの名”=神の実態を生きているつもりで、預言した。

預言とは、神の言葉を預かる、つまり”トラー”を伝えてきた。

将来何が起こるのか、占い、予想的内容を伝える事では

無いのです。

未来に起こる事を告げる、それは、預言書の中ではほんの一部の内容なのです。

預言の内容のほとんどは、”神のトラー”の生き方に戻れと言う神の警告=言葉を預かり伝える事、それが預言者の役割だから

です。

 

もし、将来に関しての予言をする人たちが、一度でも違う事を言うならばそれは、もう完全にその時点で追放されます。

その人は、神からの預言者ではない。自称予言者。

偽教師、偽預言者であり、教師として教えることも出来ない、

危険な人たちであると聖書には書かれているのです。

 

神が言われた通りの言葉=トラーを伝えてきましたとこの人たちはこの箇所で言っているのです。

そして、”あなたの名”神の実態、権威で悪霊も追い出しました。

”あなたの名”神の実態で多くの不思議なわざ=奇跡、癒し etc etc etcを行なったではありませんか?

 

つまり、神の言葉の内容の実態を伴わなくても、神のようなわざは出来る。悪霊でも不思議、奇跡、癒しのわざは出来るからです。悪霊も神を知っている、恐れていると書かれています。

 

でもそれは、神の名=実態に繋がるものではないとイエシュアが言われたのです。どうしててでしょう?

 

そしてイエシュアはその人たちの教えに対して何と言われ

ましたか?

 

 

続く