数年前に、親しい友人が誰かの教えを聞い来て興奮していた。
”これからの時代はもっと奇跡や、不思議や、癒しを求めないと
ならない。現代にはそれが欠けている、ないから、それを求めるように祈って頑張る〜”と言っていた。
?それって神の御旨それとも、ネット世界の様に奇跡、不思議を
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便利な世界〜。
神は神の主権で神がなんでもなさる事は当然で、何をしようと
するまいと、それは神の100%ご自由です。
人が神の権威を借用し、そしてパワー全開にフルになんでも
出来る様になるなんて、なんか忍者、魔法使いの世界。
その様な教えは、人が神になる。それって何?とても
危ない世界です。
イエシュアだって、父が言わないなら言わない、父がしなさいと言えばする。父の仰せ司令だけを、実行する。
父から離れて何も出来ないと言われたのに。
人間が気がつかないうちに、神の座に座る事を奨励する教え。
頑張って奇跡を癒しを、不思議を行える様になるのだ〜なんて事
書いてないし、神がどの様に何をされようとも自由であるだけです。それでは、”魔術”の世界に修行に入るのと同じです。
でも終わりの時代には”印”を求める、悪い時代と書いて
あるのです。
ルカ11章
ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」
ヨナがニネベの人に、何を伝え、何を説教したのでしょう?
イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ヒゼキヤ、etc etc etc 他の預言者全員と全く同じ”事を伝えているのです。
”テシュヴァー”神の婚姻契約の命、その生き方に戻りなさい!と言う事を伝えに行ったのがヨナ書の内容なのです。
現代のローマ神学の教えに基づく”婚姻契約”は終わったとすると、聖書に登場する、聖書の神の言葉そのものを伝えて、
そのままが聖書になっている預言者の言葉、預言者全員は、
全く無意味なミッションをしたことになってしまうのです。
ちゃんと考えて行けば、真実では無い教えは変だと気がつきます。とってもおかしな辻褄合わない教えなのです。
イエシュアも癒しをされた後、誰にも言わない様にと言った
下りがありました。不思議でした。なんで皆に言ってはダメなのだろう?こんな奇跡ができれば、”本当の救い主、神さまである〜”と宣伝することになる良い機会なのにと、浅はかにも考えていました。神より人間の方が知恵があるなんて思うなかれです。
なんでそんな事に警戒、注意する様に促されたのか。
ちゃんと書いてあります。奇跡や癒しや不思議を見て信じる。
それなら、悪魔だって信じる対象になります。同じ様に不思議、奇跡をする事が出来るからです。
魔術の世界です。エジプトでの魔術師は不思議、奇跡を出来た。
書いてある通りに読めば、分かります。悪魔は神の業を
カウンターフェイト出来るからです。悪魔でも出来る。
だから、そんな事根拠にし、神を信じるとか、信じないとか、素晴らしい〜と
飛びついてはダメだと言われているからです。そんなの世の中に
今五万とあふれていて、皆嘘のまやかしの教えに騙されて行きます。それだけでは、根付かない、根が枯れる。又は、中核が
ぼやけて、何が何だか分からなくなります。
異教の宗教と同じです。御利益があるから信じます。
でも神が言われている事は、神に造られた命を生きる全てに
関してなのです。関係の世界に関してだからです。
神に造られた人達、創造物がお互いのシャロームをガードし、
命を喜び豊かに生きて、お互いが安心して、安全に生きられるための全て、それが神の言葉により、インストラクションとして示されているのです。
神の言葉にしっかり根付き、命を本当にフルに生きることが分からないまま、神の言葉を知らないまま、奇跡や不思議や現象を
追いかけ続け、踊らせれてしまう世界が現代=悪い時代と
イエシュアが言ったのです。何がなんだか分からないけど、流行っているから、奇跡は魅力的だから付いていくと言う、神の言葉をちゃんと知らないならば、何を信じて、何の霊に導かれているのか、その識別も出来ないままでいると言うこと。
1世紀のユダヤ教の世界、〜教と言うと宗教ですが、宗教とは
神の言葉に、人間の教え、ドグマ、ややこしいルールの数々を
混ぜて作り上げ人を不自由に縛り上げていた教えの事が
書かれています。
イエシュアが対応して正していたのは、当時人間が作り出した
口頭トラー=人間解釈の、トラーをどう生きるか?と言う人間
製造の教えが、神の言葉=トラーとは全く逸脱したものであるものがあったので、それに関して注意、警告しているのです。
ここで気がつく事があります。1世紀の当時、聖書に書かれている世界の中で、トラーは終わりなんて考える人は、ユダヤ人の中でイエシュアも含め誰一人としいないのだと言う事実に立って
考える。
トラーを破棄したのは、イエシュアではなく、4世紀、ローマ皇帝、ローマ政府の勅令だと言う事実に立つ。ローマカトリックが”自分たちが変えた”と宣言している事実に戻って考え始めたら、真実が見えてきます。
イエシュアがトラーを終わらせている説教なんてしていると
言う教えは、それこそ人間の編み出した口頭トラーです。
しかも、完全に聖書の内容を読み違えています。
人の読み違えの解説を真実だと伝えられてきた、教えられてきたからそう考えているだけです。ちゃんと読めば、文脈を読めば
それだけでも、原典に戻らなくてもはっきりと気がつけます。
トラーを正しく、天から直送の神直々の神の言葉の意味の解説、を伝えているのが、山上の垂訓であり、様々なイエシュアの
たとえ話です。
山上の垂訓などトラーからの”抜粋”そのものです。
申命記であり、レビ記であり、民数記をイエシュアが語っているその言葉に気がつくと分かります。
イエシュアが悪魔の大御所と対峙した時に引用したのも
トラーです。
トラーに書かれた内容の本当の意味の解説している
トラーの中身そのものをイエシュアが神独自の解説を
皆にしているから、皆がその知恵と人間が語るトラーの解説とは
まるで違う事に喜びを持って驚いた、驚愕したのです。
マタイ7:21で、イエシュアが”トラーレス”トラー無し=
不法者と言った相手は、トラーを捨てよなんて教えを
信じていた人達では無い、トラーを生きていたと信じていた
人達なのです。現代とは違います。
その人達にどうして”トラー無し”の生き方をしてると
言ったのでしょう?
続く