イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
シナイ山で文字となった婚姻契約を神から与えられた。
これがあったから、今私たちの手元に神の言葉があるのです。
翻訳では何千と言う別種の聖書があるけれど、唯一無二、
オリジナルヘブライ語聖書は、文字数、言葉も全部同じ。
揺るがない証拠として、神が残してくれた奇跡の書。
全世界の前に光とサウンドショーで天と地を証人として
神が人に結んでくれた契約、契約には儀式が伴うので、
シナイ山の山頂=天の中で、70人の長老を招いて、
婚姻宴会が行われたのがシャヴオートの出来事です。
これは永遠普遍の婚姻契約であると神が言われたのです。
人はその事実を否定しますが、人がなんと言おうと、認めようとも認めないとも、神が言われた事が永遠普遍で真実なのです。
この点=神の言葉を一つでも揺るがすならば、それは神の真実、神の中の深い関係に入る事を否定する事です。
神の婚姻契約を否定する=詰まり内側の深い関係を否定すると
言う意味である事を、考え直した方が良いのです。
神が遠い〜と感じるのは、かやの外、神の声の下に来て、
神と直の関係、親しい関係で言われた通りを聞いてないからかもしれないのです。
ここにある”語り合おう”とは、神と人が、法廷に出て語り合おうと神が招いているのです。姦淫の罪=別の教えと混じって神の
言われた関係を生きる事、婚姻契約を破った人に対して、語り合おうと神が言ってくれているのです。
私は、神の言葉だけを本気で知りたいのか?神が仰せられている様に、常に神の言葉に対する注意深い学び、調査、リサーチ考察をしたい、する態度があるのか?それとも誰かの教え=神学 伝統の教えに基づいて、自分の観点、自分の信条を証明するために議論したいのか?何を求めているのか?
神の言葉の真実と自分の信じて来た内容が異なる場合、
迷わず神の言葉の方を取る態度があるのか?それとも長年慣れ
親しんだ伝統の教え、人間の意見、教えを取りたいのか?
自分に問うてみるのです。
その答えは自分にしか出せないのです。
自分がそう願望するのか、しないのかは、一人一人にしか
出来ない事であり、その答えはその人にしか出せないからです。
自分が長年信じてきた事が、全く聖書の神の言葉の事実に基づかない間違いであるかもしれないのです。
長年信じてきた事が、事実ではないかもしれないのです。
それでは、イワシの頭も信心からの世界になってしまう。
幻想を信じても無意味、唯一まことの創造主である神の
命の実態には繋がらないからです。
自分は神の言葉だけ、神の語る真実だけを本気で知ろうとしているのか?それは、神と本当の関係に入りたいと願望する事に
繋がります。覆いが無い顔と顔を合わせるピュアで究極の親しさの中で、神の造られた全て、エデン、喜びを享受する。
本当の関係、ナファーシュに入りなさいと書いてある。
安息と書いてありますが、神のされた業、親しい関係に入る余地が残されている間に入りなさいと招いてくれている。
特に教師にとって難しい事だと思います。生徒に向かって、自分は間違っていました、聖書とは違う事を教えていましたなどと言うなんてプライドが許さないし、勇気が居る。追放されるかもしれないし。職を失う危機もある大きなハードル。
でもそれを400人の会衆の前で謝罪した牧師さんを知っています。日本人では無い海外の方ですが。しかも、海外でも多くの
人達に教えていた、そのグループでは影響ある立場の人です。
”今まで、あなたたちに聖書を間違って教えてきた事に気がつきました。ごめんなさい。そして自分の奥さんにも謝ります。
あなたを聖書通りの神の仰せ通りに愛してはいませんでした。
本当にごめんなさい。違う事に時間と労力を使い、家族との時間、関係を大事にする事を置き去りにし、忘れていました。
何も知らないと言う事がはっきり分かりました。ちゃんと始めから正しく学び直します。きちんと分かるまでは、本当の事を教える事が出来ませんから、それまでは、聖書を教えられまん。”と言われました。
すごい勇気がいる事だったと思います。でも、そこに集う信者の人達はその牧師さんの態度、真実、誠実さ、神に対しての態度、思いがちゃんと伝わった。もちろん共にヘブライ語聖書をずっと共に学んで来た経歴があったから気が付いて人達も多く居たからです。
違うと気が付いたら、正直に認める。それは、教える立場に
ある人に取っては、すごく勇気が居る事なのです。
この点を考えてみたら見える事があります。
福音書以降、1世紀の信者たちが読んでいた、当時存在していた
”聖書”、イエシュアが教えていた、生きていた、読み上げていた書は何ですか?
”トラー、預言書、諸書”キリスト教の世界では、マルキオンの
神学により”旧約”と名付けられてしまいましたが、
聖書では、イエシュアもこれらをタナック=トラー、預言書、諸書と呼んでいました。
トラー、預言書、諸書のみしか1世紀には存在せず、それで十分であり、その書に関して、イエシュアは、トラー、預言書は、
わたしそのものであるから、そこを覗き込めばわたしが分かると言われた通り、タナックのみが聖書として存在している時代なのです。ダビデは、トラーだけを読んで、あの詩篇などを書いたのです。救い、贖い、救い主の事実をダビデははっきり知っていた。
聖書に書かれている唯一の”ソース”情報源、テキストは、”トラー、預言書、諸書”のみなのです。聖書の土台は全てトラーです。
聖書の全ては、トラーにのみ関して書かれているのです。
他の書=聖書、別の契約など存在しないのです。
福音書以降は、トラー、預言書、諸書に付いての
短い解説です。だから聖書を縦にして、目で確かめれば分かりますが、福音書以降は、聖書全体のほんの30%の量しか占めていません。
タナックを知る人達が読めば、福音書以降は、タナックの内容100%と分かるのです。
100%タナックに関してのみだけ書かれた書が、福音書以降
なのです。
この点だけでも、事実に目が開かれたら、1世紀後半以降、
西洋人教父たち、そしてローマ政府、ローマ皇帝が編み出し続けた”教え”が、1世紀の信者たちが信じていた、読んでいた聖書の内容とは異なる事が分かるはずです。
続く