1985年発行の日本語の聖書辞書、新聖書辞典の中に、安息日に関してこんな事が書かれていました。
”使徒たちは、キリスト復活の日を<いつ復活したのか不明なのに、いつ復活しようとも神のシャバットは永遠普遍と書かれているのに、こう言う解説をしています。>
”主の日”と定め、神を礼拝した、それはまた”週のはじめの日”
とも言われた。1コリント16:2
1コリント 16:2 一週の初めの日ごとに<土曜日の日没から日曜日の日没までが第一日目=労働日=ビジネス、金勘定を出来る日、安息日では無い日に集金する>、あなたがたはそれぞれ、
いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
いつ集まろうといつ神を賛美しようと、それがシャバット=週の第七日目が別の曜日変更になったのでは無いのです。
プロテスタントの世界でもカトリックが4世紀に、シャバットをグレゴリオ暦の週の第一日目に変えた伝統にあやかって
日曜日が安息日=”礼拝日”としていますが、それらのグループも、たとえ水曜日 木曜日に賛美しようが集まろうがそれが、
日曜礼拝にとって変わって、変更になったのだと考えないし、
そう取り扱いをしていません。
誰がどう解説しようとも、神の記念日は、神が言われた通りに
永遠に変わらないのです。週の曜日もの位置付けも一切、
どの時代にも未来も変わらず第七日目です。
それがヘブライ語のオラーム=永遠の意味だからです。
神って一体何者なのでしょう?いや人間て一体何者?神は人間
より劣る存在なのでしょうか?人間が神の知恵は人の知恵より
劣ると決めただけです。
誰がこの世界を、暦を造られたのかちゃんと聖書を読めば分かります。
第七日目がシャバットなのです。神がそう造られたとはっきり
書かれているのに、人間が神の言われた事を否定したのです。
シャバットの意味は、文字通りの意味は”止まる” 停止する。
普通の日、他の第1〜第6日とは、分かたれている特別な日なのです。止まる=シャバットと7=シャバの語源は共通しているのです。
だから、カトリックのカテキズムにあるように、聖書には無いが、自分たちの独自の判断で決めて、神の権威も頂いていない、
聖書にも根拠がないが、第七日目のシャバットを第一日に変更したと発表している通り事実をその通りに発表した方が正しいのです。聖書ではありませんと、安息日を変更した大元のカトリックが発表している通りに、発言する。偽証しないために。
神の言葉に対する偽証を、イスラエルの神を信じる人たちはしてはならないからです。
そうでなければ、神が変えたのだと言う偽りを、聖書、神の言葉に対する誤解と偽りの情報を世界の人々に対して与えてしまうからです。偽りの情報がその様にして駆け巡っているのです。
前にも書きましたが、神の仰せにより、安息日には、ビジネス、金勘定などしないのです。聖書にはっきりと、シャバットには
売り買いしてはならない事が書かれているからです。
イスラエル以外の国に住む場合は、シャバットでも商売はしますから、ピンと来ないですが。しかも、トラーは終わった廃れたと言う教えを信じれば、神の言葉はその教えを信じる人に対して
響かない。
どう言う意味か考えて見れば分かります。神に語りかけられ続けているのに、その神の言葉がその人の頭脳には、耳には響かない意味を持たない、神の意図をキャッチ出来ないと言う事なのです。
しかも聖書の最初の70%、ほとんどを占める内容を終わりとするなら、神の言葉の70%はその人に対して無意味、大して意味が無い、プラスだから読まないし学びもしない知ろうともしないと言うことになるのでしょう。
神の言葉が人に対して、届かない、意味を持たなくなるのです。神に語られているのに、神の言われることが、頭上を常に通り過ぎて行く。
カラスが、”神の言葉の最初の70%は無効にになりました"と書かれたバーナーをクチバシに挟んで、空を飛んで行くみたいに。
誰の言葉を信じて、食べて生きているのか、再確認する必要が
あるのです。伝統、人造神学、人の教えを信じているのか?
それとも永遠普遍の純粋な神の言葉の方を取るのか?
二つに一つ。あなたは命=神の言葉を選びなさいと言われたのは
神なのです。
聖書に書いてある常識、教えは、トラーを生きて来たユダヤ人なら知っています。
日本人が喪中に年賀状を出したり、祝い事を派手にやらないと言う事と同じ位に、誰でも常識で知っているの事なのです。
この週の第一日目、多分グレゴリオ暦で言うと土曜日の日没なのです。私たちが想像する様な、日曜日の午前中では無い。
土曜日の夜です。日曜日の午前中、午後は労働時間帯ですから。
もしグレゴリオ暦の、日曜日の夕暮れに集まるならば、それは、
聖書では、第1日の終わる、第2日目の始まり、月曜日の始まりの時となるのです。労働時間に集まらないから。
そのシャバットが閉じる、土曜日の夕暮れ時にお金を集めておきなさいと言うのは分かります。
金曜日のシャバットが始まる時、土曜日のシャバットが閉じる夕暮れに、集まりパンを割いて、夕食を共にする習慣があるからです。
安息日が終わったから、第一日目は、労働日、普通の日、
ビジネス、金勘定をする日だからです。パウロはシャバットを
破ったりしません。ヘブライの中のヘブライ、パリサイの子と
ガマリエル大先生の前で宣言した通りの意味が分かれば、
分かる事です。
しかも、もしパウロがトラーを破棄する教えをする時の異端者なら、神に使徒として選はれる事も決してなかったのです。
パウロでなくても、ユダヤ人の世界でトラーが終わりとか、
トラーが全部破棄されたなどと言うことを言う人は誰一人といない。そんな事言う場合、聖書は100%終わりましたと言う事です。福音書以降の聖書など存在していない1世紀の初めの出来事が福音書以降に書かれているのです。きちんと理路整然と考えたら何を唱えているのか気が付くことが出来ます。
聖書にそんなユダヤ人は登場していない、書いてないのです。
ちゃんと読んで確かめれば分かります。
パウロの様にトラーを熟知し、パウロの様にイスラエルと
ローマの市民権を所有して、ギリシャローマ思索の世界も理解して居る様な背景を持つ、人材は当時居なかったのです。
1世紀のトラーの最高峰の教育を受けていた人がパウロです。
だからパウロが使徒として、世界へトラーを教える役割を背負うために、選ばれた事が分かる。
トラーを熟知しない教師に教えられたら大変な結末になります。
そして、パウロは週の第七日目、金曜日の日没から土曜日の日没をシャバットとしてガードしていた事が聖書にはっきりと書かれています。書いてあることを曲げないで、書いてある通りに読めば、見えます。神の言葉を曲げるから、違う話、違う教えにすり替わってしまうのです。
だから、第七の日が、日曜日に変更、シャバットに変更になったなどと言う証拠では無い事は明らかです。聖書にそんなこと書いては居ない。逆が書いてあるのです。永遠普遍の第七日目と書いてあります。
日曜日は、労働日、動く、働く、活動する普通の日だから、
売り買い、金勘定、集金をするようにパウロは指示したのです。
この様な聖書、聖書の文化、イスラエルの文化の知識の欠如のために、聖書に書かれた内容を、早合点、自分の文化の枠の中で考えているために、聖書を読み違える、誤解していることは多く
あるのです。婚姻契約から、イスラエルの国籍、契約の中に無く聖書を知らない、遠く離れた外国人だったとある通りです。
もし聖書に書いてあることを曲げてまで、人間の歴史の中で
培われた伝統である教えや、聖書とはずれた人造神学、ローマが4世紀に聖書の内容を変えた教えや、人の解説を敢えて買いますと言う場合は、神の真実発見には永遠に繋がらない事は言わずと知れた事実でもあるのです。
真実と不真実の点と点は、どこまで行っても、交わらない、
繋がらないからです。