2つは分裂 隔ての壁は一致 1つではない 唯一の婚姻契約に付いて聖書は語っている エペソ2章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

 

”だから”と書かれている場合、その以前の内容の続きに於いて

だからと書かれています。”記憶”しておきなさい。

肉によれば、異邦人、”無割礼”人の手により、体に付けられる

割礼が無い人達である。只肉に付けられた割礼だけでは、

まるで意味が無い。実態が伴わないなら、肉に付けられた印だけあっても意味が無い。

 

”頭脳”レヴ=が割礼を受けていなくてはならない。

割礼を受ける=神の目からそっくり同じ通りを見る、新しい人としての頭脳=見方に切り替えない限り意味がない。

それは、”メシア”に在ってのみ可能だと言う事。

肉体の印は、実態を伴って初めて意味がある。

ローマ2:25ー29

 

2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

 

イスラエルの国籍が無い=選びの民としての特権と責任が無い

外国人であった。婚姻契約=シナイ山でモーセに与えられた

1つの契約にも縁が無く、イスラエルの神にも繋がれていない

から、永遠に繋がる希望も無く生きていた。

 

メシアによる救い、恵、贖いも何も知らされていない、分からない、神の存在、その内容、意味を知らない者であった。

イスラエルの神に繋がれないまま生きていた。

<エジプト=異教の神々の奴隷であった>

それゆえ希望が無い。自分が誰か分からない。

神の目から見る本当の自分を知らされていない。

人間が定義した、”わたし”と言う偽の自己像を生きて来た。

 

この世の教え、異教の偽の神の教えに甘んじて生きていた。

異教の神々にお参りし、すがる事しか出来ない彷徨う者であった。

 

1 イスラエルの民と言う市民権が無かった

2 婚姻契約の中の約束、保証とは全く関係ないストレンジャー

3 永遠の希望が全く無い状態であった

4 自分の命、存在の中に神が無かった、神と離れていた

 

 2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

 

”以前は”=イスラエルの神、イエシュアに出会うまでは、

神の命、神のデザインした人間の生き方=婚姻契約の命溢れる

生き方から遥か遠く離れて生きていた。

でも、今はイエシュアの血により”近い”=カローブ=腹の只中、

イエシュアの中にこれ以上の近さは無い近さに引き寄せられた。

エデンの中に、神の中に引き戻されている事実。

 

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

 

ここに書いてある事をその意味通り読めば、2つの契約、二つのグループでは隔ての壁であり、聖書とは全く違う、異なる教え

唱えてしまっている事が分かるのです。聖書に書いてある通りに読む。それが大原則。勝手に解釈しないで、書いてある意味を

まず知る。1つ=一致。2つ=分裂。

1つの神に引き寄せられたら、1つの民と書いてある。2つでは無い。別の種類の途中から出現した契約も存在しない。

 

新しい人して、イエシュアの中に取り戻された人達は、ユダヤ人だろうと、異邦人だろうと同じ”家族”だと書かれています。

 

異邦人は、婚姻契約から遠く離れていたのに、イエシュアにより

出エジプトした異邦人と同じく、神のことばに応答し、受け取り、信じて、婚姻契約の中に参加して生きる事を選ぶなら

同じイスラエルの”民”であると書かれているのです。

 

 2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

 

ここに書いてある”律法”とは、トラー=婚姻契約のことでは

ありません。

以前にも書いた通りに、ここに書いてあるギリシャ語もノモスではなく、”ドグマ”です。元をちゃんと辿らないまま憶測で聖書を読めば、翻訳で隠された本来の意味が見えないので、ほ〜ら

トラーを破棄したと言う事になります。でもそれ以前の文を

読めば、同じ契約に取り戻されていると書いてある事が

全くの矛盾、辻褄合わない説明になる事、ちゃんと内容、文脈=コンテックストから逸脱しないで読めばちゃんと読み取れます。

 

ではこの箇所の一般的なクリスチャン サークルでの解説は、

どの様に説明されているのでしょう?

 

1 隔ての壁=”トラーの全て”

2 儀式や、生活一般に関してのトラーの中に書かれた教え

これらは、イエシュアの言葉、発表で否定された

マタイ5:17ー20

3隔ての壁は道徳的、市民ルール、儀式など、それらはもう

現代は関係なのである。でも、そのような分離や区別は

トラーの中に存在しないのです。神はエハッドの神。

唯一、複数にして全く1つの神。神の言葉が分裂するなら、

イスラエルの神の性質とは全く異なるものです。

 

全部まるごとで”神の一つの言葉”=神が造られた人間の永遠普遍のデザイン、生き方が書かれたものがトラーだからです。

そして福音書から黙示録も100%トラーのみが描かれている事に

全く気が付けないのは、人間の教え=トラーは終わりと言う色眼鏡から読んでいる結果なのです。確認すれば分かりますが、

イエシュアが引用されている聖書箇所は100%トラー、預言書、諸書のみです。それ以外の教えなど無い。

 

なぜなら、父の言葉=トラーを正しく伝え、生きる事を教えるために来たとイエシュアの口から語られた通りだからです。

 

真実の点と点だけを繋げて、聖書に書いてある通りだけを読んで、考え続けたら、人間の教え、神学、理論と、純粋な神の言葉の違いにはっきりと気がつく事が出来る日が来ます。

 

そして一旦気がついたら、ずっと真実と真実の点だけを繋げる作業をする事が出来ます。そうすると、神の語られている世界が

永遠に奥深く、どこまでもどんどんどんどん見えてくる

”デレッフ”詩篇23にある義の道のサイクルを歩むことができます。

 

ここで書かれているドグマとは、人間の作り出した様々なルールの事。トラーでは無い。婚姻契約が終わりなら、皆誰一人としてイエシュアと繋がれていない事になるのです。

 

 

続く