神の記念日がなぜ神に取り人に取りそんなに重要なのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私たちの親である創造主は、私たちの命の全領域、生活、生きる事に細心の注意を払い、関心を持っている事がちゃんと聖書の全ページの面に、至る所に、綴られている、書いてあります。

 

関心を持つと言うと何か距離感みたいなものを感じますが、

子のために気持ちが密着している。子供のために、最善の配慮をして全てを用意し、子供の命のために、生きる全てに関して、どうしたら良いのか子に熱く熱く伝えている。我が子が、破壊されないために。傷つかないために。

悲しまないために。喜び奪われないために。親の絆から離れて、

どこか違うところに危ない場所に放浪しないように。

 

子供を産んだ親ならば、いや子供を養子にもらって育てた親ならば、又は生き物でも飼っている飼い主は、その命に対しての

全部の領域に心配りをするはずなのです。全部。

 

新生児が生まれたら、その子の全てを守りたい。安全に、健康に、すくすく大きく成長するためにも意識全開でその子のお世話に携わる、気を配ると思うのです。

 

何を食べさせて、何を着せて、どの様に一日過ごさせて、

病気にならないように、健やかに過ごせるように。

悪い言葉を使わないように言葉を選びその子に語りかける。

最善のお手本を見せてその子に教えて行く。

 

赤ちゃんにはお母さんはちょっとトーンが高い声、優しい声で

語りかけるでしょう。。まあその初心を忘れて、いつかバトルっぽい荒い語調、口調、声音になってしまったりするのですが。

 

命を生きる全部の領域に関して注意を払いたい。我が子を

愛しているから。大事な存在だから。

創造主である親は、私たちが食べる事、着る事、住まうこと、

暦に付いて、生活の全領域に於いて、又神の子らの印としての

記念日に付いて創造の時に、最初から全部プランしてそれを造られたことがちゃんと書かれています。

 

神は創造の始めから人に取っての食物が何か、人の食べ物では

無いものと区別して”特注”で造っています。親なら分かる。

子供に何を食べさせたら良いのか、悪いのか考える。

暦もそうです。この暦=神の暦こそ福音の中心を生きて、

巡って歩む事に関して、ちゃんと神がデザインしているのです。

 

イエシュアがこの世に誕生する300年まえに、ギリシャ哲学思索が入り込み、霊と魂と、体と分かれたコンセプトと言う言葉まで

翻訳聖書の中に、入り込んで来ました。元々は、聖書の中に、

ヘブライ思索の中に無い思想で、違う言葉で、違う意識の

コンセプトで、生きる存在=”命”が語られてしまうことに

なったのです。

思索や概念が違うと丸で違う世界を語ってしまいます。

異教神概念から来る天国地獄のコンセプトもその良い例です。

 

ヘブライ語では、1つの生きる存在として書かれているのです。

見えない世界と見える世界と言った方がぴったりです。

敢えて書きますが、魂、霊も頭脳も心も体もぴったり同一に

マッチしています。バラバラにならない。

 

体に取り入れてはダメなもの、イコールそれは、霊的にも

汚れたものとして書いてあるのです。神の創造物のデザイン、

物理的に見えるもの、イコール見えないものとマッチしています。

 

コヘレトの書にあるように、神は人を正しいものに造られたのに

それぞれがそれぞれの目に叶う方向へ散って行ったとある通り、

 

この1点を忘れているのです。

創造主が居られる。そして、創造主が世界の全てを造り、

人は神に造られたにすぎない創造物である事に、注意を払って

ない。神のみだけが、神の造られた世界のデザインを解説できる、定義出来る唯一のお方なのです。

 

シンプルな事実なのに、人は神の創造のデザインを否定し、神の言葉を捨てる様に教え、拒否し、神の造られた創造のデザインを塗り変える事をしたのです。

 

シンプルに、素直に神の造られたデザインされた世界を神が

神の言葉を通して説明している事を、シャマー=聞くだけで良いのです。でも、神の言葉を読まなければ、神の言葉に書いてある内容の本当の意味を知らなければ、イコール、本当はどう命を

互いをガードして良いのか知らない、分からないと言う事なのです。だからその結果世界は、破壊されているでしょう。

小さい単位は家庭の中で、絶えず争い、又は冷戦が続く。

社会でも、どこでも、神の命=言葉に生きる命が流れない場所には、それが続くでしょう。絶え間ないバイオレーションが続く。

 

新しい電気製品が来たら、その解説書を読む。読まないでも

適当に使えますが、機能の100%は知らないままになります。

プラス、製品寿命が縮む、良くない使い方をしているかもしれ

ない。賢い方法は、製造元に聞く。創造主に聞くのが妥当なのです。

 

神の言葉を聞いて分かったら=書いてある神の言葉通り=真理を認めて、確認するのが信仰です。そして、それに同意する人は、

ただ聞くだけの人にならないで、神の言われた通りに行動、

実行に移す=神の言う通りの=アーメン=その通りですと同意して生きる。シンプルな事実なのです。

 

もうすぐシャヴオートを迎えるので、神の造られた暦に関して

書いています。神の暦=月星太陽で司られる1年のサイクルと、

神の記念日はぴったりマッチしています。そしてその記念日は

福音の全てを網羅するものであり、私たちの命のサイクルを

表しているものでもあるのです。新しい人として生きるエッセンスの全てがその中に入っているのです。

神は、神の記念日のために、天体=天の光を造られたと解説しています。

 

なんで記念日が大事なのでしょうね?

日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、それぞれの国に

それぞれの国民に歴史的に記念とする記念日があります。

どうしてでしょう?その祝日を通して、歴史の出来事を

皆で思い出すためです。

全国民が、同じ意識で同じ時に、自分たちの国に起きた、

素晴らしい事、悲しい事、悲惨な事件を思い出す為です。

個人個人ではなく、全国民で同じ意識になる日、共通のグラウンド、記憶を共有し、来る年来る年ずっと繰り返し思い出す”日”を

設けているのです。

 

聖書を読んで、救い主は自分の為に命を捨てたと信じるのに、

その救い主イエシュア=イスラエルの神なのに、自分たちは

イスラエルに関しては何も関係ないのですよと教えられ事が

あります。

出エジプトも、過越、シャヴオート、仮庵の祭りも

イスラエルの祭りでしょう〜。私たち新訳時代のクリスチャンには関係ありませんよと言うのも聞いた事があります。

それって本当にほんとうですか?聖書に基づき。

 

イスラエルに起きた出来事なんだから、日本人の私たちには

何も関係ないと思う。日本人として生まれて、見かけも日本人に見え、日本語を話しても、救い主を信じる日本人は他の日本人と違う点があるのです。

 

救い主の中に、贖われ取り戻され、加えられたと書かれている。


”ユダヤ人であるイエシュア、救い主が内側に住んでいる”

だから、私たちはイスラエルと繋がれているのです。

一人の夫が居て、その人に繋がれた同じ花嫁は永遠に1つの

”民”と聖書にはちゃんと書いてあるのです。

 

続く