どちらが聖書に基づき真実?本当? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昔のテレビは、ガチャガチャチャンネルを回すタイプ。

ラジオの方がもっと分かりやすいですね。微妙にずれたら、

ぶれる、音声不透明。チャンネル、周波数ぴったりに合わせる時、クリアーに見える、聞こえる。

 

それが聖書に書かれています。神の声の下に来て、神の声の中にいて、そして神の言葉=声を聞くならと書かれている。

言われていることがクリアーに分かれば、その通りにする。

だから、”従う”と言う翻訳用語になっているのですが、

本当は、シャマー=”聞く”と言う言葉です。

 

神の言われている事がクリアーに分かった上で、敢えて神の言葉、言われた事とは違う事をするのは、全く愚かだと分かるはずなのです。もし神の言葉を分かった上で、敢えてそれとは違う

人間の教え、歴史の伝統慣しの方を選択するならば、

人間は神より知恵があるのだと、行動を持って表現している

ことになるのです。行動=その人の信じている内容を表している。

言われている内容を誤解しているから、神の言われている事とは、違う事をする、ずれてしまう。シンプルな事実なのです。

 

そして、神の言われた通りにする人は、水がワインに変わった

神の現実を体験、享受した。とっても不思議ですよね。

神がそう言ったら、実態が現れることの再現でもあります。

言葉で世界の全てが造られた。

 

なんて変なこと言うの?水汲んできて?どうして?頭狂った?

気は確か?<きみまろさん語調で>

神が言われた通り、神の言葉を疑わずに信じて、そして生きる、やってみる時、本当に色々な事を体験する、教えてもらえる、

気が付く。いつの時代にも、必ず”神の言葉”をその通りに

聞く人たちが、置かれている。地の塩、世の光として。

 

全ては、命を修復するため。保護するため。

元どおりの関係を回復するため。神と自分と人と。

 

本物の命に生きる実態を、奪われて、失われて生きてきた、

喜びも奪われ、失われた。神の似姿に造られている、

デザインと反する生き方をするから、支障を来す。

 

子供の頃は機嫌が悪いと”どうしたの?どこか悪いの?痛いの?

誰かにいじめられたの?”となるけど、大人になると、喜んでいると逆に”どうしたの?”と言われてしまう。喜びに蓋がされている状態、それがノーマル状態になる。

 

世界は、エデン=喜びを失って、自分の造られたエッセンスを

生きる事を分からない、知らないまま、迷い出て彷徨う。

 

イエシュアの光、命、生ける水は、エデンの園を飛び出した後も、ずっと荒野を付いて来たのです。ヘブライ語聖書では

顕著にその事実が見えるのです。

翻訳でも、元の意味に直して読めば見えます。

同じ、救い、贖いの実態を直に受けて生きていた人達、

そうでない人達の様子が書かれている。

 

ずっとずっと神は人の内側に住まわれ、共に住まわれる神が

永遠から永遠に存在している。

その現実に、直結出来ないまま荒野でカラカラに干からびて

生きるのかもしれない。でも、荒野の中に居ても、オアシス

繋がる人達は、乾かない、枯れない、生きる事が出来る。

 

シャバットが又近づいている。シャバットを毎日意識して生きる

1週間は全てが神のプラン通りに進む。日常の中で起こる、

嫌な事件、難題、問題、全部アバ父直々のカスタムメードの

課題。実際の生活の中での”新しい人”を生きる実際のレッスン、

訓練事項だと気がつく。

 

こんな時どうするの?WWYD。新しい人は、神の子は、

どう考え、どう反応し、どう対応、行動するの?

 

死んだ自分を生き続ければ、必ず自分を人を傷つけて生きていく。嫌だけど、本当はやりたくないのだけど、死んだ自分が

ニョキニョキ表われ出て、自分が一番忌み嫌う行動、言動を選択

する。そして、惨め。人は罪人ではないから、ずれた生き方が

とっても違和感があるのです。もし罪人の性質に造られたなら、

罪、ずれが自然。それが喜びになるはずです。それが本当だから。惨め、悲しい、辛いなんて感じるはずない。

 

でも人は神の似姿に造られている。でも死んだ人以外の生き方、方法、道を知らないから、それを繰り返す。光を失ったまま。

新しい人を今生きれる事を知らないまま、罪人だからこう言う行動してしまうのは仕方ないと助長する、甘んじる。ずれをますます許す。いや、新しくされた自分ではなくずっと”自分は罪人”と唱えるように教えられているから、妨害されてしまうのです。

脳回路の中に、偽の自己像をずっと自分で植え続けていく。

神の言われた事=あなたを購った、救い出した、雪よりも

白くした、新しい人にしていると言う神の宣言、私たちの

本当の実態を信じる事をブロックしている。

新しい人を生きる練習、選択さえしない、諦めモード、

ずれを簡単に許容する、招き入れる、ガードが甘い。

 

止まって〜シャバット=考えて。言動、行動する前に、

シャバット。止まる。言葉を選んで、行動を選んで。

常に塩味の聞いた言葉、親切で柔和、平和を生み出す神の子を生きる事を選んでと言われている神の言葉をシャマー。

出来ない事などしなさいと聖書には書いてない。

贖われた人は神の言葉を生きれるからしなさいと書いてある。

毎日の生活でやってみる。もし出来ない事を敢えてしろと神が

言うと誤解しているなら、それは”仁王様、偽の神像、無慈悲

無理難題を押し付ける神像”が意識の中にあるはず。

 

基本は、”ブレない、静けさ、落ち着く、平常心””そして、どんな時もどんな人へも、”神の子”らしく対応、言動、振る舞う。

ここを絶対に忘れない。ぶっちぎれない〜!<ブッチちぎれて、後で後悔して凹むそんな無意味な道を通らなくて済む様に

私たちは本当は変えられている。>

 

創造主が、本当の主人が造られた記念日を待ち焦がれて生き事。

特別な日に、神と人と特別な出会いを待ち望む。

意識は常に常に神の言葉に、アバ父に繋がっている。

絶えず祈れの実態はこれ。無理にしなくても自然に今神の中、

その中に存在する事を語っている。

意識が常に離れずに神に繋がれている状態。

 

祈りのヘブライ語の本当の意味は、”神の言葉に照らし合わせる”

作業だと書いてある。パウロが言った事と同じです。

”全ての思索をイエシュア ハ マシアに在って捉えて。”

キャプチャーしてと。思索、行動が神の子として生きているのか

絶え間ないコンスタントな選択。なぜ?死んだ自分が亡霊の様に

本当の自分を操って来ない様に、注意して!と言われている。

そのうち神の子の姿を生きる事、学習を通して自然に身に付いて来る。それが成長と書かれている。穂が成長する。新しい人の

性質がたわわに実ることに繋がっている。

 

神の言葉を思い巡らす事をやめられない。そう言うデザインになっているのが、神の深い知恵なのだと思う。臍帯の様に、

神の命=言葉に繋がれて生きる。神の口から出る一つ一つの言葉を食べて、養われて生きる。

人間の努力から始めるのではない、神の備えてくださった全てから生きる。

 

 

続く