過越の祭り、大麦の穂が出て来た事を確認し、そしてすぐに来る
第一の月の14日、満月の夜から始まる。
古代は、天体と、農作物の育成を観測して、祭りの日が決まったのです。神の暦です。この事実の中にすごい真理が埋まっています。
神の治める世界、神に繋がるものから出てくる命。
神が時を治める、それが天の万象=光。
今現在、過越の祭りから続く、穂を数える7週の中に居ます。
キリスト教の世界では、神の祭りの中にある福音の中心、
生きて体験するものが語られてはいません。
一部、”ペンテコステ”なるものは話題にされるだけだと
思います。私自身も11年前まで聞いたこともなければ、
それが実際になんなのか、聖書に基づき知ることさえも
ありませんでした。
春の一連の祭りの最後が、シャヴオートです。
ペンテコステが今も意味のある祭りだと認めるならば、神の祭りのデザインを確認してみる必要があると思います。
神の記念日は、神の言葉は、全部1つに繋がっているからです。私の手は爪を必要としませんとか、私の足は、関節、膝、筋肉無しで意図通りに機能しますとは絶対にならないのです。
それを機能しますと現実とは違う事を主張しているだけなのです。神の記念日は、神がデザインした100%完璧。
神の解説では、神の記念日は、永遠に祝う記念日とあるのです。
記念日を祝うと言うことは、相手が一番大事にしている事を
共に同じく大事にし、相手の意図に参加して生きる事なのです。
人の証言、解説は、神の言葉とは異なることが多いです。
そして、神の言葉の真実と、人間が語る神の言葉に対する解説は神の語る内容とずれていたら、どうやってみようとも神の真実には繋がらない。部分的に真実でも、部分的には不真実だから。
だから、エジプト=狭い、苦しい、辛いになる。
エデンの園の蛇の言ったやり口と同じです。嘘が混じっている。
真実の中に。
真実と真実だけの点しか繋がらない。だから、不真実な解説は、神の言葉の真実とは逸脱した解説=仮説を編み出して説明するのです。
アインスタインの編み出した、物理の方程式は、
誰かの仮説を証明するために作り出されました。今や多くの人は
その事実に気が付いています。いや、数式自体がインチキだと
ちゃんと分かる科学者たちは元々居るのですが、
世界にその声を届ける事を妨害する力が働いているのです。
誰かに取って都合の悪い真実は、この世で力を持つ権威による圧力で封じ込められるからです。でも今やネット時代。誰にも止められない。正しい情報を繋げていけば、必ず真実に辿り着けるから。真理を探求しようと純粋に探る世界中の人が居るから。
私たちは、神の真理の中にしか生息できないように造られているから。泥水の中に居たら、死ぬから。
世界は、真実だとしているビッグバンなど、その他多くの
太陽神信仰の人々の仮説=太陽が中心=ヒリオセントリック科学の仮説を証明するためのものです。でもその数式は実際に神が造られた世界の現実とはまっ〜たくマッチしないものです。
アリバイとか、嘘の上塗りとありますが、現実では無い事、
作り事、嘘を解説、釈明するためには、又嘘を言わなければ
ならない。嘘を証明するために嘘の解説をする、それをずっと
続ければ、その嘘が真実の様に見えて、全く不真実の世界。
嘘はどこまで行っても嘘だからです。
ミトコンドリアから人間が進化したと言うのと全く同じ。
神の造られたデザインに従い生物が命を繋いで行く。
途中で変わらない。それと同じ、神の言葉も途中で変わらない。
シンプルな事実。でも人間は神が言うことは何より第一とする
意識が基本的に欠けている、無いのです。なぜ?エデンの園で
別のものの声に耳を傾けてそれを信じる学習をした先祖の
影響を受けているからです。
子供が親を模倣して成長します。
これ、イエシュアが言われた事とぴったりマッチします。
父の言われた事以外、父の指示以外、言動、行動はしない。
父に遣わされたのは、父の言葉を正しく伝えるためと。
そしてイエシュアは父を離れて何も出来ないと言われました。
命の木=神に繋がれば”実”を結ぶ。
私たちは、本物の木=命の言葉から離れて実を結ぶ事は
出来ない。
その真実のそっくりのデザインが、シャバットなのです。
神の創造の記録が書いてあります。6日の間に全てのものを
完成して、人のために人が生きるために全部を準備した。
6日の間働いて、7日目に止まる。シンプルな事実。
神が6日の間働いて完成したから、7日目に人も神がされた事と
同じ様に止まりなさい。
シャバットは人の子のためにあり、シャバットのために
人が存在するのではないと言われたのです。
神が言われた事を、じっくりじっくり考え続けたら見えてきます。神の言葉に照らし合わせて、考え続ける。
6日の間働いて、7日に止まりなさい。
これを人間も模倣する様に、真似て生きる様に神がデザインしたのです。さあ、そっくりそのまま”わたし”と同じ事をしてと
言われているのです。フォロー ザ リーダー! WWYDを
本気で唱えて本気で信じるなら、イエシュアがされた通りを生きるのが妥当、本物ではないのでしょうか?イエシュアは第七日目を祝っていた事実を1年間考えたらはっきり気がつけます。
イエシュアがされた事の意味を捨てよと他者に教えるのでしょうか?
どうして勝手に途中で変えたのか?変えた人が居る。
神の言葉に神の警告、忠告まるで無視して、勝手に手をつけて変えることが大問題だと気がつかないとならないのです。
でもその人の言う事と神が言う事ではどちらが本物?
自分の頭で考えないとならないのです。伝統を死守するのか
神の言葉を死守するのか。どちら?選択余地が残されている。
でもWWJDを唱えて、違う事をしているかもしれないのです。
知らない間に。神の声の下からずれて、神の時からずれて
全く違う事をしても、それはレンガの世界です。
神が何を忠告しているのか。”わたしの言われた通りにしてください”この一言です。命の木からだけ食べよとはっきり書いてあるその一言に全てが詰まっています。神の言う通りにしてと。
そうでなければ、みんなバラバラ、一致も一つ体も一つ家族も
夢のまた夢です。ありえないから。
創世記 2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
続く