なぜ神の真理でなければならないのか ぎっちり詰まる神のカレンダー 神の言葉 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト、過越は、まさに”救い”そのものが書かれています。

創世記3章の中に既に、聖書のテーマ全部が凝縮しています。

この三章の中に書かれたことから全てが解説されているのです。

 

そして救い=イエシュアは歴史の途中から登場したのではなく

永遠から永遠に存在し、人の中に共に住まう=イマニュエルの

とご自身を紹介している通りです。

 

この週の金曜日26日日没まで、パン種なし=マッツアを食べる

週=種無しパンの祝い=パウロが1コリント5で、過越=種無し

パンの祝いをマッツア=罪が削がれた現実を生きて、

祝おうと言ったのは、この週なのです。終わった祭りでも

なんでもなく、神の宣言では、代々の渡り永遠普遍の

”わたしの記念日”を祝ってと言われた言葉が真実です。

イエシュアも渡される夜、”過越”の祭りの晩餐で、

毎年過越を祝い、セーダーの晩餐をするときに、変わらずに

同じようにして、”わたしの記念”として、思い出してと遺言

されたでしょう。

 

コリントに居たイエシュア信者=異邦人たちも神の祭り、

レビ記23章を書いてある通りに、祝っていた証拠がちゃんと

聖書に記されているのです。人の教えを信じるのか、神の言葉

を信じるのか、それは個人個人神の前での決断なのです。

神とどんな関係にあるのか?なのです。

誰からも強要されるものでも無い。誰からも批判される

ものでも無い。

 

神は天に”神の暦”が見える方法をデザインされました。

人間が作ったカレンダーとは異なるのです。グレゴリオ歴

マヤ暦、ヒッタイ、様々なカレンダーがある。でも神の暦は

月、星、太陽で司られており、収穫物=実りにも関連し、

その天体は、神のモアデイム記念日を司るために造られたと

書いてあります。

 

2019年、最近では2012、2015、2016、2018、次は2022。

ダブルシャバット。金曜日の日没に過越が始まる。

たまたま西洋歴の春分に絡む祭りの設定が、

”神の暦”とぴったり合った年でした。

しかも、金曜日なので、ダブル シャバットです。

祭りは、曜日に関わらずシャバットで始まり、シャバット

で閉じる。

 

だからちょうど今年の過越の祭りの日が、週に一度の

シャバットと重なったのです。毎年異なる曜日。

だからイエシュアがいつ処刑されたのか、その年の祭りの

日程が分からなければ分からないのです。毎年変動するから。

毎年、金曜日でも無いからです。事実は、不明と言うこと。

そして、イエシュアが何曜日に、いつ昇天されようと、

神の造られた記念日の日程や第七日目のシャバットの日程、

意味は何も変わらないのです。ローマが変えて、世界に何

10世紀にもの長きに渡り浸透して、それが伝統で当然として

受け取られているだけ。ハロウイーンが日本に入ってきて

その祝いの地位を獲得したのと同じ。ハロウイーンなんて

昭和時代、いや平成初期もなかったはず。でも今、令和時代の

赤ちゃんたちは、これは当然の祭りと思うでしょう。

 

イエシュアが昇天された後、太陽や月は逆方向に天を

巡るようになっていないのと同じことです。神の創造の

デザイン、神の記念日、そして神の記念日を司る

月星太陽も、2000年以降も変わらない。

 

今年は過越が金曜日の晩です。この祭りのあとに、

”初穂を捧げる日”が来る。でもその日をイースターとして、

復活祭にしたのがローマの教えですが、その日は、年ごとに

移動します。聖書での本当の名=その名は、初穂を捧げる日、

ビクリム。この日は、過越=ペサフを祝って意味がある、

繋がっている祭り。そして種無しパンを食べる週の中にあり

同時ににシャヴオート<ペンテコステ=5旬節>を迎える

7週の”穂を数える7週”が今の時期なのです。全部神の

仰せの記念日。それは、ペサフ=ヘブライ語。パスカ=

ギリシャ語で始まる一連の都上りの祭り。他の名前で呼ば

れるものではなかったのです。4世紀以降、ずっと後までは。

途中で、ローマ政府が作り、名付けた名です。彼らの元の異教の

信仰にちなんで。

 

春の月、第一の月、大麦が芽生える、そして新月から14日目の

満月が、”過越”の祭り。その日から種無しパンを食べる週が

始まり、過越から3日目に新しい命を祝う、”初穂”を捧げる日が

ちゃんと初めからデザインされているのです。

神にうっかりしてたとか、大事なものが抜けているとか、

後から付け足し、改良しなければなどと言う、そんな人間

じみたこと100%どこにも無い。神の言葉で造られた世界、

神の完了の業は完全で6日の間に全部終了しているからです。

人との関係に入った記念日=シャバットは第七日目。

途中で付け足しや、変更などするような、人間の業とは

全く違うのです。

 

そして、神のカレンダーは人のカレンダーとは違う。

ダニエル7:25に、神の時=記念日と、トラーを変えようと

する力があること、警告されています。

 

歴史の途中2000年前に、救い主昇天後初めて、救い、贖い、

神が人のうちに宿ったと言う教えや、神のトラー=婚姻契約が

終わったと言う人間の思想=神学が聖書に全然マッチして

いないことは、オリジナル聖書に書かれている内容を知れば、

いや、翻訳でも明らかです。

 

過越と言う言葉の意味も、飛び越えるとか、スキップ、過越す

と言う意味で捕らえられていますが、もっと違う意味で

書かれています。深い意味があります。贖い、救いそのものの

意味が、ずっと初めから、他の箇所とも繋がっています。

この語源には、別の説明が必要なので、まずは横に置いて

おきます。

 

そして、”悔い改め”と言う言葉も、ギリシャ語で解説されると

罪から背を向けて方向転換すると言いますが、

ヘブライ語の本来の意味は、神の中=神の言葉に戻る修復

リターンなのです。

 

罪に背を向けるが、そこが”強調”、エンファシスではなく、

創造主から遠く離れて生きていた、その場所から元の場所に

戻る=創造主の中=エデンの中=神の造られた、神のデザイン

した人の生き方に戻ると言うことが中心なのです。

 

創造主から遠く離れて生きていたと言うことは、どう言うこと

か書いてあります。神のトラーの内容全て=婚姻契約=花嫁と

して神の家に住まう姿、生き方から遠く遠くかけ離れて生きて

来たと書かれているのです。異教徒の世界で生きていた。

 

なぜ神の真理でないとダメなのか。なぜ他の教えと、絶対に

混じり合ってはダメと神が言われたのか?聖書に戻れば明らか

に分かります。

ふわふわ可愛いキャラクターの異教の神々だとしても、

どうして取り入れたり、混じってはダメなのか。なぜなら、

イスラエルの神以外全ては”サタン”=悪霊と書かれています。

悪霊は、神の真実では無い。悪霊は偽りの中に住まうと書かれ

ている。そして、神は神の真理の中だけに存在する。偽りの

中、悪霊の業、要素の中には存在できないから。

私たちも同じなのです。神に造られた神の子らだから。

 

だから、別のものと混ざったり、別物をちょこちょこ取り入れて

はダメなのです。麗しく、楽しく、美味しそう、人畜無害に

見えても。別物に変身。別のパン種で神の子の姿とは違う姿に

膨れ上がってしまう。

 

 

 

続く

 

 

マッツアで表されている過越から種無しパンの週。

 

 

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