シャヴオートに向けて 今現在は種無しパンを食べる週 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラーの中には、生きる上での必要な全ての教えが書かれて

詰まっています。これを捨てたら迷い出ると書かれています。

 

モーセの五書=婚姻契約書を捨てたら、花嫁である事を捨てる

ことと同じ事です。トラー以降の後に書かれている、預言書、

諸書は全て、このモーセの五書のコメンタリーです。

 

そして福音書から、黙示録までは本当に短い=聖書の30%

しか占めてはいないですから、トラーを知っている事が前提で

最初の70%の内容を理解している人達に対して書かれている

短い短いコメンタリーです。だから、最初の70%が分かって

いれば、何が書かれているのかクリアーに見えてくる。

 

今の時期、シーズンは、”過越”から始まり、その後3日目に

初穂を祝う日=新しくされた命、復活の命を祝う日を迎え、

過越から1週間、”種無しパン”を食べる週の中に居るのです。

 

パウロが、マッツア=要らないものが削がれた新しくされた

人として、この種無しパンの週の祭りを祝おうではないかと

言ったのが、まさに今の週なのです。パウロ達が何を祝って

いたのかの事実が、聖書に書かれているのです。

 

基本中の基本。聖書に書かれている通りの事を曲げないで

読む。人の書いた書でも、勝手に文章を塗り替えたりしない

ことと同じ、いやもっともっと大事な基本。

 

彼らが祝っていたのは、レビ記23章に書いてある神の記念日

なのです。この事実を人の教えの解説で変更してはならない

のです。事実が煙に巻かれてしまう。それと同時並行して、

”穂を数える7週間”の中にあるのです。そしてその7週の後に

シャヴオートが来るのです。今もペンテコステが有効な

祭りと考えるのなら、それはレビ記23章全ての記念日が

今も有効である事実に基づかないとならないのです。

自分の体は、腎臓しか、肝臓しか機能してませんが

生きていますと言うのと、同じ事を言っている事になります。

 

神の記念日は全部ワンセットで一つの完全な記念日なのです。

どこか一つだけ人の気分次第、自分の考えで、自由自在に

取り出して祝う様なデザインを神はしていないからです。

これは、永遠普遍の創造主であるお方の記念日なのです。

神が言われた通りにしてみる事が大前提なのです。

 

今日も変わらない。ユダヤ人だけの祭りでもない。

在りてある方が、”わたしの記念日”であると宣言している

言葉は、歴史の途中で変わらない、終わらないのです。

 

神の定めの時を今継続して通過中である事に気が付いて

見る。実際に種無しパンを毎日食べていると、

新しくされた人、神の業=救い=イエシュアにより、奴隷

状態=偽の神の支配=この世の教え、基準、偽の自己像、

偽の人生ゴールから出エジプトさせてもらった事を、毎日

インプットし続ける強化週間。

 

この過越の祭りからスタートし、種無しパンを食べる週、

過越から3日めの新しい命を祝う”初穂を捧げる日”

この一連の中に同時進行で重なっているのが、”穂を数える

49日間”。7回のシャバットを7週経て、新しくされている

実態の人達が迎える50日目がシャヴオートです。

 

ギリシャ語でペンテコステ=50だから、五旬節と言いますが、

ヘブライ語ではシャヴオート。週<複数>と言う意味。

この日は、過越=出エジプトから数えて7週目シナイ山で、

初めて文字で書かれた婚姻契約を 渡された日です。

 

そして、使徒2章はシャヴオートの祭りの出来事です。

シナイ山での出来事を思い出したでしょう。シナイ山の

出来事を追体験するがごとくの出来事。光と音のサウンド

ショー。天の現実が地上に降りてきた!

 

別の霊が降ってきたわけでは無い。歴史の中で、一大イベント

がいつもあるわけでは無い。でも大事件が”神の記念日”に起き

て、その前も後も救い主の神の働きの”実態”はずっと同じ

なのです。神の性質、人への関わり、人の中に住まわれている

実態、人への助け、許し、贖い救いは、永遠から永遠に同じ。

神がいつ、どの様な形でも、人間の前に肉眼で見える

様々な不思議をされようとも、それは、全く神の自由自在で

しょう。

 

様々な福音に関わる重大事件は、必ず神の定めの時=レビ記

23章の記念日に起きています。神には独自のカレンダーが

ある。新月、満月、神の定めた記念日。

 

神の暦は、天体と、そして春、秋の作物で決められている

のです。春に熟す”大麦”が出てきて、そして新月が観測され

れば、その後の満月が”過越”の祭りである事が分かるのです。

誰でも、分かる。赤ちゃんでも、幼児でも分かる。神の定めの

日が”ハーグ”=祭りが来る時は、作物の状態と、空を見れば

新月、満月が観測されて見えるから、神の祭りが来たと分かる。

 

歴史の中の、神が直接現れる様な一大イベント、事件が起きた

からとて、その時までに神の救い、贖い、許し、助けがなかっ

たと言う意味でもなんでもないのです。聖書には永遠の中に

ある完了の業が、地上での出来事を通して人々に表されたと

言う事が書かれている。人のために、証拠としての儀式として

それをしてくださっているのです。天と地を証人として、

揺るがない証拠=肉眼で見える証拠も与えているからです。

それ以前でも以降でも、救い、贖い、許し、神が共に

住まわれる実態は同じなのです。

 

12弟子にイエシュアが語られたのです。他の人達にではない。

エルサレムを離れないで、約束されたものを待ちなさいと。

 

イエシュアが居た時と同じ様な天と直結している助け、力が

与えられると。彼らは特別なミッションを担うのに、特別な

励まし、力、知恵、識別力が必要だったのは疑う余地は

無いでしょう。

 

12弟子たちには特別なミッションが与えられていたのです。

彼らにイエシュア言われた言葉です。エルサレム、ユダ、

サマリヤの全土で、証人となると。全世界へ、トラーを伝え、

教え、聖書までも書き記すミッションが待っていた。

 

しかも、最後はイエシュアと同じくローマ政府に処刑される

事が待ち受けていたのです。だからイエシュアが言われた

”木を負ってわたしについて来ないなら”という言葉、

十字架と在りますが、本当はローマ政府の処刑は木にかける

事です。弟子達である彼らに語ったのです。十字架を背負うと

いう教えが流通していますが、本当は、弟子達の末路、辿る道

をイエシュアが預言していたのです。

 

特別な仕事をする時には、特別な力が必要です。出産をしたら、

体が不思議に変化するように。ホルモンが出て、母乳が出る。

授乳出来る、すぐに眠れる、深く眠れる。又子供の泣き声で

目が覚める。母性本能で我が子を守る意識が生まれる。

その時期が過ぎると、母乳も出ない。それと同じです。

別の霊が現れたのではない。弟子たちへ向けての、特別な

ミッションをする力を与えられた記録です。

 

又、エルサレムに皆で留まる7週は弟子たちに取って必要な

7週でもあったのです。ラビイエシュアは、彼らと共に住まい、

生活の中で、トラーの本当の意味と、そして生き方を教えて

くれ続けて、愛し続けてくれた。ラビイエシュアが突然殺され

て、居なくなってしまった。そのトラウマやら、悲しみやら

考えてみたら分かると思うのです。嘆き悲しむプロセス、

時間が必要。

 

そして、40日目にイエシュアが彼らに現れたのです。

荒野の40年、40日40夜。この40日は、意味のある日。

 

癒されるための言わば、喪に服す期間でもあった事でしょう。

そして、穂を数える=オメルを数える7週にぴったりと時期が

合っている。シャヴオートまで、新しくされた命の実態を、

イエシュアの処刑、復活と重ね合わせて、弟子達は

今の時期エルサレムで祭りを祝いながら回想していたのです。

 

続く