聖書に書いてある本当のこと 神の祭り 変わらない言葉 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

たくさんの内容が、この”過越”の神の祭りの中に詰まっている

ので、重複しながら、書いています。

 

聖書が閉じたずっと後に造られた祭りが、今は世界に定着した

祭りとして祝われています。アメリカで春が来たと感じるのは

卵型のチョコレートがスーパーで所狭しと売られている様子。

うさぎと、卵が春到来のイメージ、シンボル。

 

でも1世紀の聖書に書かれているユダヤ人、使徒達、ユダヤ人

=異邦人=ナザレ派と呼ばれたイエシュア信者たちが、春の

時期に祝っていた祭りは、過越の祭りから始まる一連の祭り。

 

イースターと言う名前が付けられた祭りが世に出てきたのは、

聖書が閉じられた300年以上もずっとずっと後のこと。

1世紀の使徒達、信者達は実はその祭りの存在さえ知らない

のです。その祭りの由来は、ローマ政府発祥だからです。

ローマ皇帝が名付けた、異教由来の名前の祭り復活祭は、

”春分”を巡っての暦と定めようと決めたのです。

 

1世紀以降、その後もイースターという名の祭りではなく、

イエシュアの信者たち、変わらずに、春は、第一の月の満月

14日目の日没から過越、そして種無しパンの週、初穂を祝う日

穂を数える7週間と、そして春の祭りの最後がシャヴオートで

一連の祭りを閉じたのです。

 

紀元後325年、ニカイヤ会議が開かれました。分かりやすく

言えば、参加者全員はローマ皇帝の”イエス マン”=部下

です。反対する部下、敵など皇帝は誰一人とも招くわけない。

社長に逆らう、部活は一人も居ない会議が開かれた。

もちろんユダヤ人ラビなど一人も居ない会議が開かれた。

それがニカイア会議です。ローマ皇帝主催の独裁会議。

誰も反対意見など言う人はいません。

ローマ皇帝の提案、決め事に、皆全員が”イエス!アグリー”

同意します!と言う、そう言う会議です。反対者ゼロ。

100%賛成投票で可決する事が決まっていた会議。

 

そして、イースターという名は、彼らの元の宗教関連の

名前、異教の女神の名を取って、そしてその異教の祭りに

ちなんで、春分の後初めて満月になった最初の日曜日が

復活祭と決めました。だから聖書に、神の祭りを指して使う、

イースターと言う名、言葉が無いのです。

 

だから復活祭は毎年同じフィックスされた曜日。必ずどの年も

金曜日が受難で日曜日が復活祭。満月の後の最初の日曜日が

イースター。グレゴリオ歴が基準だからです。でも創造主で

あるお方が造られた神の暦は天体です。

神の暦と、西洋宗教の暦は違う。

 

神の暦では、毎年曜日が違う。過越の日も違う。初穂を祝う日

も違う曜日です。第一の月の14日から過越の一連の祭りが

始まると言う、どの月の何日=満月と合って定められている。

祭りは満月からスタート。満月=同じ契約が再更新されている

印が天に出る日!別の契約なんて無いから。

別種類の月が出る訳では無いから。

 

事実を変えないで、神の言葉の事実に基づき、その場所から

それぞれが事実に基づき、どう考え、神の前に立つ信仰を

選ぶかと言う事が問題なのです。

 

それまで、色々ミックスの教えで迫害されていた人達も

ローマ皇帝の提案に迎合すれば、もう宗教迫害は無い。

だったら、ちょっとくらい混ぜて、迎合して、いやトラーを

捨てよと言うなら捨てて、神の記念日も捨てて、変更して、

風あたりゼロにして、安全確保。

分かりやすい図式。イエズスを救い主と信じてれば良いって

事でしょうと。

 

婚姻契約を捨てたら神の前に危険、やばいと知るナザレ派は、

世界へ散って行ったのです。隠れ”イエシュア信者”として、

深く静かに潜って行って、影を潜め、トラーを語る声は消えた。

トラーなんぞ口にする人は殺されるので、黙った。ユダヤ人は

発言権も、所有権も、様々な社会的権利を奪われ、トラーも

没収焼かれてしまった歴史。

 

でも神はマカバイ戦争と同じく、勇敢な残りの民達を現代まで

保存し続けてきたのです。”火種”があれば、再び復活する。

そうでなければ、切り貼り、付け足し、改ざんされた神の言葉、

聖書の内容、人間の教えが神の言った事だと誤解されてしまう。

ヘブライ語の聖書は、文字数も言葉もそっくりそのまま

同じように保存されてきて今日に至るのです。

 

聖書では、復活の命は、”過越”の祭りから始まり、種無しパン

を食べる週の中にある”初穂”を捧げる日として始めから神が

デザインして、祝われているものがあるのです。

 

もちろん、この日を、イエシュアの処刑と昇天を目の当たりに

体験した人達、1世紀の弟子たち、この祭りの一連の意味、

救い、贖い、復活の命にされている事実を、本当にクリアーに

現実にこの地上で、目の前に現れた事、それを体験して事実

認識をしたのです。考えてみる。イスラエルにその当時住んで

居た人全てが、その出来事を目撃、遭遇しなかった。私たちも

あの2000年前の過越の出来事には、遭遇しなかった。

でも完了の業=永遠からある技が地上でも表された=その事実

を、過去からは未来へ、未来からは過去へ、同じ事実を眺め、

同じ実態をこの身に受けているのです。

本体=影=中身は同じ。見えない事実、見える事実。同じ。

 

全人類の共通のグラウンドは、神の言葉の中だけ。

聞いてきた教えは人の教えか、神の言葉であるのか、自分で

とことん調べて見ようとすれば分かる。

 

隔ての壁を作る原因は、人間の作り出した教え。人間の教えの

中に立って探る、思索、行動すれば、必ず分派は起きてしまう

事は免れない事が、ちゃんと書かれています。

 

ダデイ=父の言う事を聞けば良い!単純な事なんですが、

それが人類は嫌なんですね。実は。

親父の言うことなんて屁の河童。賜物、ギフト、恵、奇跡は

欲しいけど、父の言う事=言葉なんて、要りませんと言う。

 

エペソ 2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは

以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼

ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

 2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの

国籍がなく、約束されたいろいろの契約=トラーに縁がなく、

この世の中で希望もなく神もない者であった。

2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れて

いたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血に

よって近いものとなったのである。

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを

一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉に

よって、

2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したので

ある。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に

造りかえて平和をきたらせ、

 

ここの”戒めの律法”などと翻訳用語を読んで、即座に、ほ〜ら

神の古い旧約聖書が破棄された事が書いてある証拠があると

されています。でもそれは、勘違いしている、誤解した読み方

をしているだけです。

 

ここに書いてある原語の意味は、”人々の間に様々な隔ての壁を

作り出す、人間の条例、法則、規則、人間の教え”と言う

意味です。トラー=神の婚姻契約のことなど1つも語られて

いないのです。聖書に書かれている本当の意味を捉えない、

知らないまま、誤解した解説を聞き続けて、誤解の解説の

教えから聖書を読めば、本当に神の言葉でもなんでも無い、

別の教えを信じ込んでしまいます。

 

神学の教えは、トラーは終わりだと教えます。神学校の講壇

から次世代の教師たちへ、そう教え続けて今に至ります。

 

でも忠実にテキスト=ヘブライ語聖書に書かれている事だけを

読んで、誰かが改ざんした聖書ではないものを読めば、

いや翻訳を読んでも何が本当に書いてあるのか、分かる。

 

神の言葉とはずれた、人の教えや、神学を通して読むと

聖書が全く辻褄の合わない、矛盾だらけの書になることに

気がつくはずです。