イースターの名前と祭りの由来はいつどこから? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラーの中には、全て必要な教えが書かれています。

これが、聖書の全ての教えの土台、照らし合わせなのです。

トラー内容だけを、預言書、諸書、そして福音書から

黙示録迄の中に書かれていると言うのがオリジナル聖書の

事実です。これを、揺るがす、変形した教えを通して読むと

全てが真実から歪んで崩れていきます。

 

人間が生きる全てに必要な事が全て書かれている。

 

神の言葉、約束、契約、神の造られた全て、そして神の福音

を表す神の記念日も永遠普遍です。歴史の途中で変わらないし、

歴史の途中で愛、憐れみ、許し、義の実態は初めから終わり

まで、同じ。アレフでありタヴであると書いてある通り。

そして神は助けを歴史の時間に置いて仕分けしたり、分別

したりするような小出しをしない。いつも変わらず同じ、

救い、贖い、許し、復活の命の事実は永遠から存在している。

第6日目で”全ての業”が完了したと言う一言の中に全てが

表され、書かれている事を見落とさない。

 

聖書に書いてある通りに読んでみると、事実が見えてきます。

 

過越から3日目、”初穂”を捧げる日として、ちゃんと太古の

始めから”復活の命”の事実の記念日は祝われて来ています。

もちろん、イエシュアが到来した事を知らない人でも、

復活の命にされている事実を知っている。それが、2000年

前に地上に現れたあの”イエシュア”=救いであると認識

出来ないでいるだけで。彼らも、同じ様に救い主の到来を

待っている。初臨を知る人は、再び来られる事。知らない人は、

救い主が到来して、神が統治する世界が来る事を待ち望んで

いる。

 

春の収穫物の初穂と言う意味と、”初子”の命の意味とは繋がっ

ています。イエシュア=初穂、初子に連なる人たち。

過越から、”穂を数える”7週の時に入るのです。そして今週

は、種無しパンを食べる週。新しい命に復活している事実を

インプットする強化週間です。これが、新しくされた人の実態、

成長の様子でもあるのです。

 

復活の命を記念する日。そして、その日の名前は、もちろん

ヘブライ語です。”ビクリム”。私はその日はイースター

言う名であると教えられてきたので、そう思って聞いて

きました。でも聖書のどこにも、イースターと言う名は無い

ですし、ヘブライの名前でもありません。

 

聖餐式なるものをして、”渡される夜”と読んでも、それが実は

過越の祭りの一連の出来事である、セーダーの晩餐=弟子たち

との再び来られるまで、地上で共に祝う事は出来ない、

あの時が最後の晩餐での、種無しパンと贖いの杯を通しての

儀式である事も、そう書いてあっても事実が見えない、

つなぎ合わせる事も出来ませんでした。しかも、聖餐式に

使うパンは種ありパン。過越の祭りの主の晩餐で行う

儀式の種無しパンである意味が消えてしまっています。

 

復活を祝う日として造られた祝い、イースターと言う名前は、

異教の神の名が由来です。その祭りの習わしも、シンボルも

異教の祭りの中に同じものがありますので調べてみれば

分かります。春分の到来時期。冬至の時期に当たる12月も同じ

異教の祭りの日と重なるように、ローマ政府により制定され

造られました。

 

春=多産の女神を祝う同じ祝いが他の宗教の中にあるのです。

同じ春の時期に。タムズ、アシェラ、アシュタロ、イシス。

様々な名前、様々な宗教の中にこの教えがあります。息子で

あり夫である人が野獣に引き裂かれ、死んで40日地下に降る、

その後に復活し蘇る。その40日の嘆き悲しみの期間、これが

四旬節レントとして、40日嘆き悲しむ教えとして、ローマ教

の教えの中に取り入れられています。聖書の中にも書いて

あります。エゼキエル8:14

 

ヘブライの世界、ヘブライの聖書の中には無い教えです。

だからその多産の教えのシンボルは、であり、うさぎなの

です。うさぎは神殿に持ち込めない、タメーでふさわしく無い

動物。これは別のトピックなので別の機会に。

 

聖書に書かれている神の記念日は、過越の祭り、その後に続く

種無しパンを食べる7日間の中、第3日目に、”新しい命”=

初穂=初子=復活の命を祝う日がちゃんと始めから神が設定

してデザインして、太古から祝っている祝い日です。もちろん

今神殿が無いので、初穂の収穫を捧げることが出来ませんが、

復活の命の事実、エッセンスを祝える。

 

初穂を捧げる。初穂=初子=イエシュアを筆頭に、復活の

命に連なって新しくされた命の実態を、作物を通して表して

いる、神の前に新しい人として、捧げられている絵画的言語、

祭りの実態。

 

後に来るシャヴオート<ギリシャ語では50日目と言う意味の

五旬節>も、春の神の同じ記念日の一連の祭りの1つ。

シャヴオートを祝うとは、過越を祝ってのシャヴオートの

祝いなのです。しかも、神の記念日は、全てシャバットで

スタートし、シャバットで閉じる。曜日に関わらずに。

それぞれの祭りが単独に存在していて、イースター、

ペンテコステ、クリスマスと言う祭りが、神の仰せになった

神の記念日なのだと思っていました。事実は、クリスマス

イースターは聖書が閉じられたずっとずっと後に作り出された

祭り。その祝いが世界に定着したのはもっと何世紀も何世紀も

後の話です。シャヴオートは、神の記念日、春の祭りの最後。

 

初穂=復活の命を祝う日は、春の神の記念日=過越の一連を

祝う中での記念日なのです。どれか一つを取り出して、単独的

に祝うと言うのは神のデザインされたスタイルではないのです。

1つの曲は全部奏でて完全な1曲。

交響曲は、全楽章奏でて一つの完全な交響曲であるのと全く

同じです。どこか端折ったら意味が繋がらない、欠けがある

不明になるからです。

 

シャヴオートは、過越から始まる春の祭りの最後を締めくくる

祭りであるのです。しかも、シャブオートの時は、今度は

種の入ったパンを捧げるのです。新しくされた人の命を

表すものです。イエシュア=初穂のエッセンスが入って

フルになみなみと成長した様子を表すもの。

その人たちが、今度は”婚姻契約”=トラーを受け取る準備を

出エジプト、奴隷脱出、偽の主人から解き放たれた後の、

7週の間にした。それがシャヴオート。

 

過越からシャヴオートまで7週間、しばらくあります。

古代は旅は、徒歩や、動物に乗って長旅をしてくる。祭りと

祭りの間に家に帰るのは遠いので、過越からシャヴオートの

7週をエルサレムで過ごす事は恒例だったのです。それほど、

都上りの神の祭りを国全体が大事にしていたのです。

 

だから、イエシュアも弟子たちに、”都=エルサレム”に留まり

主の言われた約束を待ちなさいと、言われた通りエルサレムに

滞在し続けたのです。弟子たちは、これから、全世界へ向けて

トラーを教える任務、聖書を書き記すミッションが待っていた。

トラーを世界へ教える事で、ローマに迫害される試練、ローマに

イエシュアと同じように処刑されてしまう事が待ち構えていた。

 

特別な力を与えられない限りそんなハードル、試練は超えられ

ないのです。彼ら使徒たちに与えられたミッションへの準備期間

でもあったのです。別の助け=イエシュアがおられた時と

同じ同質の助けが与えられるからと、弟子たちに約束された

のです。

 

続く