イースターと過越の祭りの違いは? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今19日の日没から世界中で”主の晩餐”が、祝われています。

2日間に渡り祝う人達。種無しパンの週何度かこの”セーダー”

の主の晩餐をやり、出エジプトの回想をする人たち。

神の造られた記念日を祝う世界中の人達。

 

ジュリアスシーザーが作り出したカレンダーでは、1月1日が

新年ですが、聖書の暦は実は、今が新年の始まりです。

第一の月、ニサンの月の第14日、15日の始まる日没に

エジプトからイスラエルと、イスラエルの神の声に同等に

応答したエジプト人、異邦人たちが一夜にしてエジプトを

脱出した出来事です。神の記念日は、必ず”満月”になる。

婚姻契約が、神の約束が永遠に変わらず更新し続けている証拠

の印である天の万象。そして、神の記念日を司る目的のために

月、星、太陽が造られたと書かれています。

 

日本には多分太古にたくさんのユダヤ人が渡来して、トラーを

教えた痕跡が様々な形で残っています。ひらがなもカタカナも

古代ヘブライの痕跡があります、文字がそっくりです。

ユダヤ人が、コカコーラと言う文字を見たらなんとなく読める

と思います。同じ発音も言葉がたくさんあるし。

 

そして、4月は日本では全ての始まりですね。春は新しい命が

生まれる時。作物の収穫期でもあります。収穫と、主の祭りは

ぴったり一致している意味があります。春の収穫、秋の収穫。

 

過越を迎える前に、イエシュアの最後の地上での1週間を回想

すると共に、パン種除去掃除する日々を越えると、色々な事を

教えられている事に気がつきます。1つは、誰もがもれなく奴隷

であった事。偽の主人、偽の神、偽の自己像、偽モノの

この世の教えの奴隷であった事。

偽の神、その実態はサタンです。本物の神以外は、神ではない。

 

イザヤ書を読むと”わたしが主である。”<一番親しい呼び名、

四文字で表される名。過去、現在、未来、変わらない全ての

創造物での源であるお方>と何度も何度も繰り返し繰り返し

宣言されている理由があります。他の全ては偽の神=偽の霊

=サタン。神は唯一イスラエルの神以外に居ないと言う強烈に

はっきりクリアーな宣言です。だから世界には、ドン引きされ

てしまうのでしょう。人間の肉の目からは、何でもありと

言って欲しい。それが許しの神と思いたいから。もちろん隣の

家の人に、あなたの信じているものは実はサタンなんですよな

ど、そんな失礼、無礼な事、嘘でも口に出しては言わない

のも常識ですが。知らない間に気が付いてもらう。

 

地の塩、世の光。私たちが神の国の子らである事を、人々が

気が付く、知る手がかりは、”神の言葉を神の似姿のまま

生きる事”、天の現実=神の言葉を実際に生きている事

他の人々が知るのではないでしょうか。

 

イスラエルの神は、”distinguish"=区別する神です。

神に属するものと、神のもので無いものをはっきり分けて区別

しています。とにかく他の神々のものである事との混ぜ物を

姦淫の罪として、光と闇、トーヴとラー、タメーとタホーと

分けている。でも、神の言葉に信頼して来る人、神の言葉を

生きる人を誰でもイスラエルの家族の一員として加えて下さる

受け取って下さるのです。人種も性別も職業も、タイトルも

何も関係ない。

 

神が区別をクリアーにすることは不当、理不尽?でしょうか?

自分の主人が自分に忠誠を誓う事を願うのは不当でしょうか?

それとも、自分の旦那さんが”いいさ、誰とでも親しく交わり、

好きなようにすれば”と言うのが、寛容である事の定義になって

しまうのでしょうか?区別がなければ、なんでもありなら自分が

誰であるのか分からなくなってしまうのです。世界は今、区別を

拒絶、拒否します。何でもあり、混じり合い、混同、混乱の

世界。神が言うことと、人間の考えの区別が何もない。

同化、同一。どちらが本当に妻を真剣に大事にしている証拠

なのでしょう?安全では無い領域に飛び出すことが自由と

許すのが愛?と勘違いしているだけ。

 

しかも、この世界は、”在りてある方が造られた”その方のもの

です。創造主のみ旨通りにするのが、何が不当なのか?と

言う事でもある。それを人が受け取れないだけなのです。

でもこのお方は、宣言しています。永遠から永遠に恵と憐れみと

許しに富んでいると。横暴で、無慈悲で、理不尽な神ではない。

ご自分のご性質をそう始めから紹介しているのだから、

そのお方の言葉に信頼するかしないかだけの、人間に側の

問題なのです。

 

イエスさま信じているならイースターやクリスマス、主日礼拝

をどうして祝わないの?と言う疑問を、イスラエルに居る

友人達や、その他の友人達に対して持っていた。1世紀の聖書に

出てくるナザレ派なるイエシュア信者に対して、思ったことが

ありました。何でだろう?

 

1世紀の聖書に書いてあるナザレ派ユダヤ人、異邦人と同じく、

変わらずにトラーを生きている人達に対して、10年前に疑問を

持ったことがありました。聖書にも、イースター、クリスマス、

日曜日を祝っている事など一度も書かれていない。どうして?

イスラエルでは、その日が労働日で休みじゃないからとか、

そんな理由だけではなさそうだとは分かった。でも、特別な

記念日無視するなんて、ちょっと主に対して失礼じゃ無いの?

主の日や、誕生日、復活の命を記念日として祝わないなんて、

それで、イエスさま信じてるなんて言えないんじゃ無いの?と

言う当然な疑問。

 

10年前の当時、神の記念日、レビ記23章に書かれている

ものが、”わたしの記念日”と神が言われた神の本当の記念日

ある事を私の方が知らなかったと言うことです。彼らはずっと

神の仰せである、代々=オラーム=永遠にガードしなさいと

言う事をやっている。ユダヤ人のイスラエルの記念日、祭りと

言う別の名称に置き換えられて、異邦人がやるべきものでは

ない、いや、やってはいけない悪い古いものと教えられていると

思います。私もそう教えられてしまっていたのです。

 

プラス1世紀後半からずっとローマ帝国の法令により、聖書=

トラーやトラーに書かれた神のオリジナルの記念日や、習わし、

生き方全てを”バンド”=禁じられ、トラーを生きる人達を

捕まえる厳戒態勢が敷かれた。トラーを生きる人達は迫害、

大量処刑され、特にユダヤ人達は、権利や財産、所有物を

ローマ政府により剥奪され、ユダヤ人達は社会の中で、

発言権、力、権威、権限、剥奪されたのです。社会の角に

閉じ込められてしまった歴史の事実があります。

 

もちろん、神の造られた永遠普遍である神のオリジナルの

記念日を祝う事も法令で禁じられ、ひっそりと家庭の中で

こもって密かに祝う以外、特に異邦人ナザレ派信者達はそ

んな馴染みのないものをそこまでして祝う勇気などなかった

でしょう。ローマの教えに迎合して辻褄合わせた方が安全。

 

ある国の情勢では、現代でも、集まり聖書を学んだりしている

事が見つかれば、逮捕されたり脅される、そんな世界を知れば

どれだけ命がけで神の仰せをガードしなくてはならないのか

想像出来ると思います。

 

神の記念日レビ記23章の中身をきちんと学んで、同時に実際に

神の記念日を生きて祝って行くうちに、どんどんどんどん福音

の内容の深さ、救い贖いの深さ広さ、全領域に広がって居る事

に気がつきます。そして1年に渡る神の記念日こそ、

イエシュアそのもの、福音の全部、救い、贖い、新しい命を

生きれる事実の全てを網羅しているものなのです。

 

では、なぜ復活の事実を記念しないの?と思うでしょう。

いいえ、太古からずっと祝い続けている復活の命の事実。

実はこの過越の日から始まり、次の7日間の種無しパン

を食べる週の中にちゃんと始めから神がデザインして入れて

います。

 

救い贖い復活の命、新しい人にされている命、神が内側に

共に住まう現実は突然2000年前に出現したものでは無い。

永遠の中から既に神が用意して、存在しているのです。

 

その日を何と呼ぶのでしょう?

 

続く

 

ペサフと書いてある布。この布の中に3つ重ねたマッツツアを

入れます。真ん中に入れたマッツアを砕きます。

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伝統的には丸いお皿に小さい醤油皿くらいの丸いお皿をいくつか

乗せて、その上にマーローやハローセットなどを乗せますが、

我が家流では、真ん中に置いてそれぞれが手を伸ばして、

取れるようにしました。準備中。

メインコースはラムを出しますが、今日のメニューは、

サーモングリル、ローストビーフ、パンプキンサラダ、

マッシュポテト、グリーンサラダ、キューカンバートマト

サラダ、ブロッコリーガーリックソテー、ラザーニア、ご飯、

その他付け合せ野菜、ピクルスなどなど。ベジタリアンの方が

居たのでラザーニアはベジタリアン用と2つのバッジ。

初めて過越の”セーダー”主の晩餐を祝う人たちもいて、

大感激の様子。

 

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