誰の教えを聴き続けているの?神の言葉それとも人の伝統の教え? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

👨‍🌾👨‍🌾農業に携わる自分のおじいちゃんに、一挙手一投足、

一年間の様々なシーズンの農作業、準備などを習っていた

男の子の記録。自然、神の創造物に直に触れて生活する人達は

それだけで、神の性質の一部に触れて生きているのだと

思わされます。そしてその男の子のおじいちゃんが、

彼の教師です。人生の教師でもありますね。いかに働くか、

いかに命を育てる、保護するのか、教えられています。

 

稲刈りの大変な作業が終わった後、”疲れませんでしたか?”と

聞かれて、”全然疲れてない。だって収穫は一番嬉しい日

だもの。”と。そして、神の与えてくださった作物の極上の味を

喜び楽しむ。

それを見て、神の祭りを思い浮かべたほどです。

神の祭りは、農作物の収穫の時期とぴったり。祭りの時は

神から与えられた大地の実り、収穫物を感謝し、神の前で

捧げ、皆で成長と収穫、そして恵、祝福を頂き、味わい、

それらを喜び楽しむ時。

神殿があった時代は、コバーンを捧げた後、それを皆で

祭壇の上でバーベキューにしてご馳走を頂いたのです。

神に捧げられるものが同時に自分たちも頂き、喜び楽しみ

味わうもの。

もうすぐ、過越の祭りがやって来る。

 

本当に色々な事を考えさせられます。

彼の発言はおじいちゃんから伝授された知恵です。

そして、それを本当の意味が分かって来ると自分の実力、

実となり定着するのです。

 

イエシュアが弟子たちと共に過ごした時間も全く同じです。

天から直接くだった、本物の人間の姿、生き方。その生き方

はトラーに書かれた神の言葉100%の生き方だったのです。

だから、イエシュアは、当時ザ トラーと呼ばれた。

ハ トラー。

 

今まで聞いてきた、神の言葉の三分の二が無効になったとし、

神の言葉を否定、却下、削除する教え。

人間が歴史の途中で作り出した教えを一旦全部、排除、削除、

リセットして、神の言葉だけに戻って考える必要があります。

神は、神の言葉を、完全なご自身の言葉=契約=トラーを

決して翻さないと言われたその言葉、神のトラーは完全

なのです。後に訂正必要な神の言葉=教えなど何もないの

です。聖書だけに戻る。正しい場所で神の居られる場所=

人類共通の場所=神の言葉の中だけで事実を探る。

神の言葉の真実に戻る軌道修正をしてから、聖書を読み直す。

 

目に見えない実態=イエシュアは初めから存在し、

初めからその実態に人々は触れて、神は初めから

インマヌエル=人の間、中に住まう神とご自身の性質、

実態を紹介されて書かれているのですから。

 

太古の人たちの方が目に見えない救い主の実態をより深く

知っていた。エデンの園を飛び出した後もちゃんと

イエシュアが共に付いてきている事が、書かれているのです。

聖書の中には。読み取っていないだけです。なぜなら、

そこに書かれているヘブライ語の言葉の意味、コンセプト

を知らないからなのです。日本人になら分かる世界。

それがヘブライ語の世界でも同じなのです。

分からないから、書いてある意味、意図が読み取れない

だけです。だから、正しい情報が必要なのです。

 

エデンの園から流れ出て来る、世界の四隅に繋がる水、

荒野を付いて来た水をほとばしる岩の実態は何?

雲と火の柱とは、ミシュカンの祭壇の上神から直接、天から

直接下った火とは?直接肉眼で見える天のシャドーコピー、

イエシュア=神の実態が人の間にちゃんと住まわって居た事

でも分かるのです。

 

荒野で過ごした40年はまさに神と直に触れる体験、

命の繋ぐには、神から語られた言葉と、神から必要の全てを

毎日直接与えられて、得て生きていた。40年の間、サンダル

も衣服も擦り切れなかった。

 

救い主の実態を今より遥かに深く体験的にも知っていた。

救い主が地上に来られた後の時代の私達だって、

直接イエシュアを見た人なんて誰一人居ないのです。

それと全く同じです。

イエシュアは永遠普遍。そしてイエシュアの業も永遠の

中に完結済み。6日までに全ての業を完了したと書いてある

通り。だからシャバットでその事実を毎週一度 祝うように

神が言われたのです。イエシュアの実態=イエシュアの業を

祝う日でもある。それがシャバット。

 

2000年前も後も同じ。見ずに信じるもの、その信じる

内容は全く同質なのです。だから太古から語られた同じ福音

と書かれているのです。

 

目に見えない実態を視るがごとく信じて生きる事が信仰と

書いてあるのです。同じです。そのお方の実態は歴史の

どの場所、どの時代、どの時間でも全く同等同じ質の神=

実態なのです。神の業の実態は同じ。神は変化しない、

神は二面相では無い、神は同じ神、永遠普遍だから。

 

そこが、ローマ思索、線上、時系列に物事を考える

ギリシャローマ哲学思想で神の言葉の実態を眺めてしまって

いる神の言葉に対する認識の大きな大きな違いです。

ヘブライ思索のヘブライ語聖書=永遠普遍の神の言葉を

神から教えられている世界とは異なる。

 

人の教えを、信じた始めに教えられてしまったから、始めから

神の言葉=永遠普遍である真実に、幕をかけられている

だけなのです。

 

よく考えれば分かることが数々あります。

まず、呪い=神の言葉自体が呪いであると言うコンセプト、

教えは神から出た教えではないのです。ヘブライのトラーを

知らない、学んだことの無い異教徒思想上がりの

西洋人教父達や、その教えを土台にローマ皇帝が4世紀に

編み出した教えです。

これが事実なのです。神の言葉に戻り確かめればちゃんと

証拠が書いてありますし、宗教歴史の出来事を調べるだけで、

どこで、別の福音が出現したのかはっきり突き止める事は

簡単に出来ます。事実を調べないと言う事が問題なのです。

調べてみなくてはと考えつかない事が問題なのです。

1世紀のイエシュア信者、福音書から黙示録に書かれている

その信者達は、100%トラーの中身を生きていた事実が

書かれている事を根拠にするだけでも、真相が見えます。

 

神の言葉は人の生きる道を照らす光とあります。

神の言葉は完全、永遠と書いてある。

ありとあらゆる言葉で、神の言葉は私たちの鎧兜である、

救いの岩、堅固な櫓、決して歴史の途中で変わるような

チャチでヤワな性質では無い事実が書かれています。

神の言葉とは何か?と言う事が分からない、異教の国々に

住む人の思索では、神の言葉は永遠と書かれていても

それを否定し続けてしまうのでしょう。

 

呪いを終わらせるために、イエシュアが地上に来たと言う

発想は、私の中では、ウルトラマンのストーリーと重なって

しまうのです。

悪者倒しに最後に登場するウルトラマン。しかも、その悪者の

正体は自分自身の言った言葉?約束、保証、婚姻契約が呪い=

縛り?一体その神像はどんな神?です。本当に。聖書に書いて

あるイスラエルの神とは全く異なる神像です。

だからそんな教えは、ユダヤ人には、別の神の教えとしか

聞こえないのです。

 

それならば、元々短い間しかイエシュアが地上に居ないのなら、

ややこしい古い呪いの教えなんかを弟子達や人々に教え

ないで、余計なこと教えないで、別の契約の中身を教えるのが

当然ではないでしょうか?

 

続く