👨🌾👨🌾農業に携わる自分のおじいちゃんに、一挙手一投足、
一年間の様々なシーズンの農作業、準備などを習っていた
男の子の記録。自然、神の創造物に直に触れて生活する人達は
それだけで、神の性質の一部に触れて生きているのだと
思わされます。そしてその男の子のおじいちゃんが、
彼の教師です。人生の教師でもありますね。いかに働くか、
いかに命を育てる、保護するのか、教えられています。
稲刈りの大変な作業が終わった後、”疲れませんでしたか?”と
聞かれて、”全然疲れてない。だって収穫は一番嬉しい日
だもの。”と。そして、神の与えてくださった作物の極上の味を
喜び楽しむ。
それを見て、神の祭りを思い浮かべたほどです。
神の祭りは、農作物の収穫の時期とぴったり。祭りの時は
神から与えられた大地の実り、収穫物を感謝し、神の前で
捧げ、皆で成長と収穫、そして恵、祝福を頂き、味わい、
それらを喜び楽しむ時。
神殿があった時代は、コバーンを捧げた後、それを皆で
祭壇の上でバーベキューにしてご馳走を頂いたのです。
神に捧げられるものが同時に自分たちも頂き、喜び楽しみ
味わうもの。
もうすぐ、過越の祭りがやって来る。
本当に色々な事を考えさせられます。
彼の発言はおじいちゃんから伝授された知恵です。
そして、それを本当の意味が分かって来ると自分の実力、
実となり定着するのです。
イエシュアが弟子たちと共に過ごした時間も全く同じです。
天から直接くだった、本物の人間の姿、生き方。その生き方
はトラーに書かれた神の言葉100%の生き方だったのです。
だから、イエシュアは、当時ザ トラーと呼ばれた。
ハ トラー。
今まで聞いてきた、神の言葉の三分の二が無効になったとし、
神の言葉を否定、却下、削除する教え。
人間が歴史の途中で作り出した教えを一旦全部、排除、削除、
リセットして、神の言葉だけに戻って考える必要があります。
神は、神の言葉を、完全なご自身の言葉=契約=トラーを
決して翻さないと言われたその言葉、神のトラーは完全
なのです。後に訂正必要な神の言葉=教えなど何もないの
です。聖書だけに戻る。正しい場所で神の居られる場所=
人類共通の場所=神の言葉の中だけで事実を探る。
神の言葉の真実に戻る軌道修正をしてから、聖書を読み直す。
目に見えない実態=イエシュアは初めから存在し、
初めからその実態に人々は触れて、神は初めから
インマヌエル=人の間、中に住まう神とご自身の性質、
実態を紹介されて書かれているのですから。
太古の人たちの方が目に見えない救い主の実態をより深く
知っていた。エデンの園を飛び出した後もちゃんと
イエシュアが共に付いてきている事が、書かれているのです。
聖書の中には。読み取っていないだけです。なぜなら、
そこに書かれているヘブライ語の言葉の意味、コンセプト
を知らないからなのです。日本人になら分かる世界。
それがヘブライ語の世界でも同じなのです。
分からないから、書いてある意味、意図が読み取れない
だけです。だから、正しい情報が必要なのです。
エデンの園から流れ出て来る、世界の四隅に繋がる水、
荒野を付いて来た水をほとばしる岩の実態は何?
雲と火の柱とは、ミシュカンの祭壇の上神から直接、天から
直接下った火とは?直接肉眼で見える天のシャドーコピー、
イエシュア=神の実態が人の間にちゃんと住まわって居た事
でも分かるのです。
荒野で過ごした40年はまさに神と直に触れる体験、
命の繋ぐには、神から語られた言葉と、神から必要の全てを
毎日直接与えられて、得て生きていた。40年の間、サンダル
も衣服も擦り切れなかった。
救い主の実態を今より遥かに深く体験的にも知っていた。
救い主が地上に来られた後の時代の私達だって、
直接イエシュアを見た人なんて誰一人居ないのです。
それと全く同じです。
イエシュアは永遠普遍。そしてイエシュアの業も永遠の
中に完結済み。6日までに全ての業を完了したと書いてある
通り。だからシャバットでその事実を毎週一度 祝うように
神が言われたのです。イエシュアの実態=イエシュアの業を
祝う日でもある。それがシャバット。
2000年前も後も同じ。見ずに信じるもの、その信じる
内容は全く同質なのです。だから太古から語られた同じ福音
と書かれているのです。
目に見えない実態を視るがごとく信じて生きる事が信仰と
書いてあるのです。同じです。そのお方の実態は歴史の
どの場所、どの時代、どの時間でも全く同等同じ質の神=
実態なのです。神の業の実態は同じ。神は変化しない、
神は二面相では無い、神は同じ神、永遠普遍だから。
そこが、ローマ思索、線上、時系列に物事を考える
ギリシャローマ哲学思想で神の言葉の実態を眺めてしまって
いる神の言葉に対する認識の大きな大きな違いです。
ヘブライ思索のヘブライ語聖書=永遠普遍の神の言葉を
神から教えられている世界とは異なる。
人の教えを、信じた始めに教えられてしまったから、始めから
神の言葉=永遠普遍である真実に、幕をかけられている
だけなのです。
よく考えれば分かることが数々あります。
まず、呪い=神の言葉自体が呪いであると言うコンセプト、
教えは神から出た教えではないのです。ヘブライのトラーを
知らない、学んだことの無い異教徒思想上がりの
西洋人教父達や、その教えを土台にローマ皇帝が4世紀に
編み出した教えです。
これが事実なのです。神の言葉に戻り確かめればちゃんと
証拠が書いてありますし、宗教歴史の出来事を調べるだけで、
どこで、別の福音が出現したのかはっきり突き止める事は
簡単に出来ます。事実を調べないと言う事が問題なのです。
調べてみなくてはと考えつかない事が問題なのです。
1世紀のイエシュア信者、福音書から黙示録に書かれている
その信者達は、100%トラーの中身を生きていた事実が
書かれている事を根拠にするだけでも、真相が見えます。
神の言葉は人の生きる道を照らす光とあります。
神の言葉は完全、永遠と書いてある。
ありとあらゆる言葉で、神の言葉は私たちの鎧兜である、
救いの岩、堅固な櫓、決して歴史の途中で変わるような
チャチでヤワな性質では無い事実が書かれています。
神の言葉とは何か?と言う事が分からない、異教の国々に
住む人の思索では、神の言葉は永遠と書かれていても
それを否定し続けてしまうのでしょう。
呪いを終わらせるために、イエシュアが地上に来たと言う
発想は、私の中では、ウルトラマンのストーリーと重なって
しまうのです。
悪者倒しに最後に登場するウルトラマン。しかも、その悪者の
正体は自分自身の言った言葉?約束、保証、婚姻契約が呪い=
縛り?一体その神像はどんな神?です。本当に。聖書に書いて
あるイスラエルの神とは全く異なる神像です。
だからそんな教えは、ユダヤ人には、別の神の教えとしか
聞こえないのです。
それならば、元々短い間しかイエシュアが地上に居ないのなら、
ややこしい古い呪いの教えなんかを弟子達や人々に教え
ないで、余計なこと教えないで、別の契約の中身を教えるのが
当然ではないでしょうか?
続く