ヘブライの世界のヘブライ思索で書かれたヘブライ語の聖書の
中身を知るには、ヘブライの世界のコンセプト、使われている
言葉の意味、または地理や文化、地形、考古学の中身などの
必要な情報を知る必要があります。
これらは、古代イスラエルに住む人達は、誰でも知っていた。
説明されなくても、皆知っている常識である知識。
でも、現代異邦人には分からない。つまり情報に欠けて
古代のヘブライの書を読むには、欠けている情報を得て、
読む必要であることは当然の事なのです。
正しい情報だけを繋げて聖書を読む。どの時代にも、教師が
置かれていたのです。
だから、預言書、使徒、パウロが選ばれ、聖書を書き記し
教えたのです。
医学部に通い、免許を取り、外科の執刀医になる。
また長い年月をかけ鍛錬、訓練を受けた専門の人に
自分の生き死にに関わる手術の執刀を頼みたいと
願うのは当然の事なのではないでしょうか?
何も知識の無い、経験の浅い素人に自分の命を預けるなんて
そんな無防備な発想、願いをする人は居ないです。
同じく、学びも訓練も受けたことが無いパイロットが
操縦する飛行機なんて絶対に乗らない、いや、免許取り立ての
ドライヴァーの運転する車にも乗るのは不安を感じて当然。
何もノーハウ、熟練していない、操縦内容知らない人に命を
任せるなんてことしたくない。素人上がり、その道の知識に
長けてない、経験の浅い人に任せるのはちょっと躊躇する
ものです。
信仰の世界でも同じなのです。
だから、1世紀の福音書以降、イエシュア昇天後、
パウロのところに書簡で近隣諸国の、世界から質問状が
ドシドシ届いたのは、当時の最高峰の教師であるパウロに
トラーの中身、そして、諸外国に於いての自分たちの暮らしの
中で起きている、様々な問題点に対する対処の知恵をパウロに
トラーからの解説、適用、問題解決を仰ぐために、
エルサレム=トラーの本拠地、教師たちが集う場所に
パウロと言う教師を選んで手紙で質問状を送った。
その回答がパウロの書簡として残されているのです。
諸外国に散らされているイエシュア信者達が、パウロではなく、
他の人を教師として選ばなかった理由は、パウロこそが1世紀
当時のトラーの最高峰の教師であったからです。
本当のトラーの中身を知っている教師に教わりたい。
だから、パウロはその様な役割を、神から与えられた事は、
理解しやすい事実。パウロの経歴、生い立ち、教育を
調べたら納得出来ます。
誰よりもトラーの内容を熟知していた、そう言う教育を受け
ていた人物であったからです。1世紀のイエシュア信者が
自分達の教師をパウロと選んだのには、理由があるのです。
教師を探す、選ぶことは大事です。
この人に聞いたら確かな答えを得る事が出来る!と知って
いた人たちは、パウロにトラーの内容を手紙で質問したのです。
神の言葉を正しく教え、そして生きる秘訣、知恵に満ちた人
達=ひげのあるもの=ザケン=長老に聞くことは、当然な
常識であり、正確な答えをくれる安全圏内だからです。
今の社会、日本の社会、自分の生きる生活の中でも
分かります。ある分野の専門を知っている人。
その道に長けている人に習いに行こうと考えるのは当然です。
あの塾は、受験のノーハウを知っている教師がいると、
ある学校を目指す人は、出来れば皆そこで学びたいでしょう。
クラッシックバレーや、音楽を学びたいなら、素人よりは、
熟練した専門家、その道の内容を深く知っている人に習いたい。
当然の事です。だからプロのスポーツ選手も、コーチ、教師を
厳選して選んでいるのでしょう。
外国語を習うなら、プロに習いたい。ネーテイヴでしかも、
教えると言う経験に富んだ人、分かりやすく教えてくれる人、
教え方に優れている人を選ぶ。日本語訛りのある日本人、
言葉の意味を知ってるのか知らないのか分からない、素人の
不確かな教師に学ぶより、本物に習いたい。
こう言う発想は、悪い事なのでしょうか?いいえ、世界では、
当然の常識であり、誰も問題視しないです。選ぶ事をする人は
賢い選択をしているのです。誰でも日常普通にしている選択、
行為です。ヤブ医者と評判のある病院には敢えて行かない
はずです。でも、信仰の世界ではこれらの基本的常識は
全くカウントされないものであると思います。
信仰の世界はちょっと異なります。聖書に書かれている
本当の意味内容を知らなくても良いと考えるのです。
霊に導かれれば良いと言う教えです。
元の意味=神の言葉の意味する本当の中身を聞ける機会が
少ないと言うことは、お家元が退けられて、黙らされて来た
時代が何世紀も長く続いたからです。ローマの教えがお家元の
座に座ってしまっていたからです。アブラハム、イサク、
ヤコブの神なのに、エジプトのラー=太陽神、ゼウス、アプロ
アシュラ、イシュタールの様な異教の神々の教えのコンセプト
が入り込んでしまった。でもその時代は終わりを叫び始めて
います。そして、ヘブライ言語を知る、ツールも方法も今の
時代には様々に手に入る。<でも教えを施す、内容を紐解く事
が出来る教師は必要ですね>聖書だって一人一人の手元にある。
中世はこれらが全くない。ヘブライ語聖書なんて修道士でも
学ばない、読まないだから知らない。マルチンルターも
ヘブライ語聖書は分からない、学びたかったと告白しています。
この近年まで、普通の人たちが、ヘブライ語聖書の中身を
探るツールはなかったと言う事が事実です。調べる術が、
なかったのですから。
太古の世界、古代から語られて来た、同じ福音=変化の無い
神の言葉=福音を再びその通りに聞く事が出来る時代が
来る<詩篇78>と書いてあるその時が到来したと言えます。
これは、世界に居る多くの人も認識している事実です。
ラビ達にイエシュアが直接現れてしまう。トラーを知りたい
と言う渇望を与えられている諸外国にいる多くの異邦人達が
居る!アフリカの奥地で、中国の内陸で、南米で、アマゾンの
奥地で、マズラムの人達にも、闇の世界に生きる人たちにも。
神の記念日、シャバットや祭りを祝う世界に居る多くの
異邦人達。トラーをヘブライ言語で学びたいと渇望する、世界
のあらゆる国に居る多くのキリスト教の牧師さん達。大きな
うねりの曲がった軸が正常位置に戻る軌道修正が始まって
いるのです。世界中で。神が何かをしているからです。
そして一方、神の言葉の中身を本当に、原典に基づいて、
知らなくても、一つ箇所、言葉を取り出して、どの様にも
解説は出来るし、話は果てしなく創作話を作る事は出来ます。
でも、元の意味がずれれば、それは真実とは異なるのです。
神の語る言葉の意味を知ることは、神の真実に出会う重要な
鍵です。
ある教えの1部分だけは、もちろん真実だとしても、
ある部分が真実では無いならば、それ以上先に広がって
行けないのが事実です。事実では無いことから、神の言葉の
語る真実へは、絶対に繋がっていけないから、それゆえ不真実
な教えは、それ以上神の真実へ発展していけないからです。
誰もが教師になってはならないとイエシュアが言われた言葉が
クリアーに見えてきます。人を間違いに導いて行く可能性を
教える人達は持っていると言う警告です。
神の言葉は永遠に広がり、繋がる広い深い高い世界なのです。
どこまでも続く、伸びていく。不真実は行き止まりがある。
それ以上掘り下げて行けない。又は、コンセプトがヘブライ
思索のヘブライ聖書とまるで違うので、別世界の宗教のお話に
変身してしまう。
でも元を知りたい場合は、知っている教師を見つけることです。
正しい情報を得る事が最短距離。真実を知る最短距離です。
その時に注意することは、一旦人間の神学を全部頭の中から
排除、ゼロにする事です。西洋神学=デスペンセーション、
置換神学のようなトラーを知らない西洋人が編み出した
神学に基づく思索を通して、ヘブライ語聖書学んでみても、
それはまた別の形で曲がって行くからです。