世界に浸透した伝統的な教えとは違う事を語る場合、
それが聖書に基づく事実であっても、確認もしないまま否定、
攻撃されるのが常です。そして、一方、神の言葉の事実確認
事実に軌道修正、聖書に戻り調べる事を怠っているのです。
あの手この手で巧みにうまい具合に絡む、仕掛けてきます。
なぜなら、神の真実をカウンターフェイトしたい勢力が
あるからです。その勢力が、思いがけない人々を通して、
カウンターフェイトして来る。神の教えに賛同するのか
世間の人間の偽説をサポートするのか?どちらかです。
1世紀のラビたちも、神の言葉にカウンターフェイトする
一役買っていた事が分かれば、理解出来ます。
自分たちの伝統の教えが、神からの真実だと真剣に信じて
いた1世紀のラビたち。その人たちの前に本物のラビ、
天からの本物のトラー教師=イエシュアが登場した。
イエシュアが当時のラビたちに拒絶されたのは、トラーとは
違う、別の契約の内容の教えをしたからではないのです。
ラビたちの人間の教えてんこ盛りの添加物の教えの解説と
神から直接来たトラーのヘブンリーな解説、中身が、
自分たちの解釈とは異なる、自分たちの伝統の教えとは
異なるから、ラビたちは、拒絶感を感じたのです。
プラス、自分が”神”と巷でイエシュアが発言していることに
対しても、反感を持っていたからです。
トラーを否定する教えをする教師たちなど、ヘブライの世界、
聖書の世界では、そんなことは1つも書かれてないこと、
その点の軌道修正、誤解を解く必要があるのです。
神の言葉が終わったものと誤解し続ける限り、はっきり
言って、イエシュアの言葉を誤解し続けて行きます。
なぜなら、イエシュアは父の言葉=トラーを正しく
伝えに来たと宣言しているからです。
それが、トラーを破棄するためではなく、
成就するために来たと言われたイエシュアの言葉の意味です。
1世紀当時の、ヘブライの世界のトラーに対する教えの
慣用句なのです。
成就=トラーを正しく理解、解釈、生きる。
破棄=トラーを神の意図とずれて解釈、生きる。
と言う1世紀のヘブライ人、イスラエルに住む人なら
誰でも知っていて、使った言葉なのです。
成就イコール終わりと考えるのは、全くもってヘブライ語の
語る聖書の世界を知らない、逸脱した概念から来るものです。
知識の欠如、事実に対する認識のずれです。だから聖書に
書かれている内容を正しく理解するための、様々な手がかりが
必要なのです。霊に導かれているつもりでも、正しく無い
知識を通して神の言葉を読めば、ただの空想の世界に
留まる理解の仕方になってしまうのです。
聖書に書かれている全て100%トラーを捨て否定した教えを
書いている記者など一人も居ないことを知らないと始まらない。
成就したから、神の言葉をもう生きる必要がない、もう全部
呪いは終わりと言うコンセプトは、神の言葉に対して使う言葉
としてあり得ない言葉です。不適切極まりない。
なぜなら、福音書から黙示録も、トラーの中身の短い解説だと
気がつくことも出来なくなるからです。
その教えは、異教徒思索の異教の意識で造られた教えです。
トラーが永遠普遍である事の認識がない、異教徒上がりの
人達が作った教えなのです。
そうだとしたら、この世界は、今現在煙のごとく消えて
いなくてはならないはずです。
神が、天地が存在するなら、神の言葉も同様に永遠に
廃らないと言われたからです。
別の福音が出現、異邦人たちがより優れた契約を
受け取ったという誤解が、その様なずれた意識を生み出す。
だから自分達異邦人はユダヤ人よりより深く福音を理解して
いると勘違いするのです。まさかです。全く逆です。
ヘブライ語の聖書、トラーの本当の中身の意味を知らない
人が言う言葉です。
カタコトの日本語を語る外人が、日本の学者、日本語教授より
日本語の内容を知っていると言うのと同じです。
私たちは、ユダヤ人の教師達=預言者、使徒、聖書記者、
書写達からトラーを伝授されたのです。
聖書=トラーはユダヤ人たちの手により一文字一文字
瞳を守るが如く、正確に書き記され、命がけで保存されて
来て今があるのです。
ユダヤ人により書かれたトラーを伝えられたのです。
でもその内容が、ローマの教えと言う仮面を、4世紀以降
被らされたものを、私たちは聴き続けてしまっているのです。
ローマの教えでは、イエシュアが今までの呪いの教えとは
別の教えが出たと教えていますが、それって聖書に基づき、
100%全く嘘の教えなのです。
聖書に書いてある事とは、まるで違うと100%宣言出来ます。
神の言葉に基づけば、神の言葉は永遠から永遠に普遍と書いて
あるからそう宣言できます。書いてある通りに読まないから
変形した教え、概念が生まれるのです。
事実の確信掴めます。神の言葉だけに戻る。人の教えを元に
したら、何が真実なのか、何も見えなくなります。
ローマの教えは、4世紀にトラー=神の言葉を退け、
捨てて作り上げた、時の新興宗教であるからです。
ローマは神の敵、神の言葉を否定し続け、ユダヤ人を殺害
し続けてきた。
イエシュアもローマ政府に処刑されたでしょう。
ヘブライ、聖書の世界の中身はローマではない。
だからその中には神の忌み嫌う偶像満載ですし、
様々に変形された儀式、記念日、教えが
あるのです。
是非とも何が事実なんか、自分でちゃんと調べ、自分の目で
確認する必要があるのです。有名な先生が言ってたからと
言うのでは、真実の証拠、何の根拠にもならないです。
神の言葉の真実を探れば、神が神の真実を教えて下さる。
神の言葉の真実を知る理由は一つ=神の中から飛び出さない
ため。真実の神の顔=実態を知るため。神と本当の関係を
結ぶために。どのように神に近くのか神が言われる内容を
知るため。自分の命が安全に損なわれないため。人との関係、
神との関係を神の意図通りに保つため。喜び奪われ嘘食べて
失望し、意気消沈しないためです。
そうすれば、分かるからです。分からなくても聖書だけに
基づけば、神の言葉が変わったと言う教えが、変だと必ず
気がつけます。事実をきちんと調べる人は揺るぎない事実が
あることを知っています。ヘブライの神の言葉=ヘブライの
聖書の教えと、人間の作り出した教えとは異なるからです。
神の宮、ユダヤ人の家や集まる場所に
偶像は無い。聖書に書かれた神が提示、仰せになった
シンボルだけ、メノーラやメズサなどがあるだけ。