伝言ゲームの様に途中でメッセージを変えたら何が神の真実なのか分からなくなる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2019年は、大忙しの年にふさわしく、忙しいままスタート

しました。皆それぞれ日々こなさなければならない、仕事、

家族の世話、介護、家事、育児、子供の用事や学校行事、

家族親族行事、地域での責任、その他諸々の用事があるの

ですから、それぞれ手一杯な毎日。

 

色々な問題や、思いがけない病気や事故、様々な環境や状況は

人により、異なり違いますが、一人一人人生のサイクルの

シーズンを神の前に知らずとも知らないままでも、この地上で、

神の前に神の時を歩んでいると言う事なのです。

 

神の暦では、今なん時?と言う問いが在ります。

不意打ちが無いように、今がいつであるのか、目覚めて歩む。

目覚めていると言う聖書での意味は、神の言葉=神の言われる

ことから注意を逸らさないで、神の言葉の実態の中身を生きる

と言う意味で書かれています。

神の暦に沿ってリハーサル=天の実質体験を毎日生きていく。

 

そして、その超多忙の中で、神の定められた時、日に、

家族で止まると言うことをすることが、どれだけ大事なのか

毎週の様に実体験、実体感しています。

そして、その小単位は日没。一日の始まりは一日の休みに入る

時から始まるのです。神の用意して下さった業からだけ生きる。

 

人生の大事なシーズン、時をぼんやり〜過ごせば意味なく

過ぎてしまいます。無駄に過ぎてしまう。実り無く過ぎる。

日本のテレビ番組を見ることが出来ないのですが、この間

日本で、友人が”チコちゃんに叱られる”と言う

番組について話してくれました。

”ボ〜と生きてたらダメだよ!”と言うらしいですね。

 

そうです。ボ〜と生きている。いやボ〜としてるつもりは

ないのですが、違うことに夢中で、大事なことに対して、

無頓着、無造作、無思慮、ボ〜としていて生きていたと、

年を取ってから気がつくこといかに多いことか。残念。無念。

自分の人生の中にも、聖書の中にもそくっりそのまま書かれて

いることを発見します。

 

アブラハムが老齢99才になった時に、神から再確認されて

いる場面があります。

 

創世記17:1

 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、
全き者であれ。
 
神が親しくアブラハムに話しかけている。
神がどんなお方=性質なのか、そしてアブラムが神の
前にどのような性質、存在であるのか神御自身が
紹介している、宣言しています。神が言われている内容だけ
に注目=人の目から見た、神は、人はと言う注解は
入れないのです。
 
アニ エル シャダイ わたしは乳房を持つもの
<乳房のある者=直訳です。全ての必要を供給する存在で
あるお方,全ての命を保存し生かすことの出来るお方>
ヒット ハレッフ 歩む
ルパニ わたしの前に
ヴェイェ タミン 全き者であれ be blameless

 

アブラムは神から何を再確認されているのか?”新しくされて

いる、義とされ神の似姿である人”なのだから、その実態を神

の前=顔=神の言われる事=神が語る言葉の内容=実態から

目を反らさず、離さず生きなさい”と通達される場面が

あります。

 

聖書=神の言葉は始めから終わりまで変化、矛盾がありません。

全部繋がっています。途中から変わったとか、別の教え、

別の契約が出たのだと言う、神の言葉とは違う話にされて

しまえば、神の言葉の真相、真実が隠されてしまう、

見えなくなる事実が山ほど出来てしまうのです。

それが、神の顔を別の顔でおおうなかれと言う、

10の言葉の最初の冒頭の厳重忠告でもあるのです。

 

特に、聖書の最初の三分の2、聖書の70%良く知らない

読まない、何が書かれているのか聞いたこともないと言う

現象が長い歴史の中で起きてしまっているのです。トラーの

内容が分かれば、聖書の最後=福音書から黙示録までの30%

はクリアーにトラーの内容ぴったり100%そのものだと

読み取れます。

トラーの短いコメンタリー、ダイジェスト版が、聖書の

最後の30%だからです。

 

この箇所も創世記の始めも黙示録の最後も、テーマは同じです。

神の似姿の人がエデンから飛び出したこと、でも同時に

神の似姿である人の事実が神により永遠から保存されている、

それをどの地点、どの時間、どの場所、どの国の国民でも、

取り戻し生きれる事実がずっと書かれています。

 

信仰により義とされている、その前に神の側で、その事実を

はじめから用意、保存、取り戻している、それが割礼=神の

言葉を生きる事、保存して継承されて行く印として与えられて

いる事、全部繋がっています。簡単に説明出来ないので

ちょっと長くなって行きますが、これから春の神の祭り=

過越に向かって瞑想して行きたいと思っています。

 

タミンの状態で神の前に歩みなさいと、なんでそんな事

99才の時点でアブラムは、神に言われたのでしょう?神から

言われる、神にアブラムが再確認、リマインド=思い起こしを

させられるその理由は何なのでしょう?

 

アブラムがちょっと忘れているかもしれないから、ちゃんと

はっきり自覚して日々の歩みをしていないかもしれないから、

神に再確認させられているのでしょう。

 

自分が誰か忘れて生きていませんか?と言う神からの問いです。

 

忘れると言う事は以前覚えていた、知っていたと言う事です。

でも、以前も今も自分が誰なのかの認識が全く無いならば、

ぼやけてはっきりした自己像が分からなければ、神の前に

”タミン”=ブレームレス=神の目から欠けがない、

欠損がない、損傷が無い、傷がないと言う意味が信じられ

ないでしょうし、タミンの状態で生きれるよと神から

言われても、まさか〜ジョークでしょうと神の言葉を否定

してしまう、その否定が結構謙遜とか、へりくだっている

状態だと誤解されている。神の言葉を否定する事が何を

意味するのか考えないとならないのです。それが不信仰です。

 

神が言われたことを、言われた通りに受け取り信じて、

神の言葉に同意し、異議無しですと宣言するのが、

真理<エメット>=信仰<エムナ>=アーメンの言葉の

意味です。これらの言葉のルート文字は同じです。

意味が繋がっているからです。タミンであると言う神の言葉

を退け、否定し続けるので、頭脳の記憶に定着しない、

神の与えて下さった本当の自分の自己像が分からない、

まだ知らないと言う結果が生まれるわけです。

 

重たい問いです。あなたは”タミン”である事を自覚持って、

本当に知ってわたしの前に歩んでいますか?と問われて

いる。もし、知らなければどうしてでしょうか?と言う

ことを、神からこの年=99才の人間的表現で言えば、

いい歳しているのだから、きちんと神の言葉の意図通りを

再確認、理解して歩みなさいと再度神から注意を

促されているのです。

アブラムだけではない、今日それが私たちへの神からの

同じ問いであるのです。それでなければ、聖書=神の

トラー=神の言葉を読む意味は何も無くなってしまいます。

 

 

 

続く