わたしの顔から歩みなさいとは? 神の語る言葉は命を与える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書=神の言葉を読む時に、人間が書いた本を読むのと

同じ条件があります。

 

どの様な人が、どの様な背景で、どの言語で、どの様な思索で

意図で、どの様な文化の中で書かれたものなのか?と言う事を

まず知る事です。

 

それぞれの読者の中に、それぞれの生まれ育って培って来た

文化背景、思索パターン、傾向と言うフィルターが、必ず

あるので同じ書かれたことでも、様々に違うことの様に

読み取ってしまう可能性があります。

閻魔大王、極楽浄土、天国地獄のコンセプトの様に。

聖書に書いてある天とは、”シャマイム”空。

地獄と訳されている言葉も実際にエルサレムにある場所の

名前です。墓場がたくさんある。。。全然違うコンセプト。

 

まずは、神の言葉に書かれている事の事実を知る。その上で

色々と適用に発展して行けるのですが、書いてある事の真意

を誤解している、分からないままだと、適切な適用ができない

と言うことになってしまうのです。

 

そして、注意深く神の言葉で記されている真意をずらさないで

読むことが必要です。勝手に変えない、挿入しない、削除

しない。思い込みを捨てる。

 

先入観や、人の注解、神学を通さずにそのまま神の言葉に

書かれている事を読んでみると、実に”信じ難き”事がたくさん

書いてあります。信じ難きを信じ〜の世界。

 

この間のシャバットでは、出エジプトの13章から17章が

今週のトラーの朗読箇所でしたが、その中に書かれている

内容は、神のされることの全ては全くもって、人の考え、

予想を遥かに超えていることが書かれています。神の助けも

人の考えとは全く異なる、違う方法で、人の考える時間とは

違う時に与えられている事が書かれています。

遅〜いと思っても、どこから助けが来るのと考えても。

 

イスラエルと異邦人が、”エジプト”ミツライム=狭い、苦しい、

悲しい辛い、異教の神々の奴隷、偽の自己像でしか生きること

が出来ない場所から1夜にして脱出して来た。

 

それ以前に、マッツア=不必要なものがそぎ落とされたもの、

ハメッツ=パン種=罪が無いと言う意味のパンを作り食べる

様に言われている。そして、その前に鴨居に”子羊の血”

塗る作業をさせられている。子羊の血は永遠からあるのです。

そして、動物で代用されていますが、影です。実態は目に

見えない永遠から存在するイエシュアそのもの。

同じ同質の救い、贖い、助けが存在しているのです。

どの時代も同じ。変化なし。

 

全部神が用意した一方的な完了の業。人の努力、手柄、業

はノーカウント。永遠からあるイエシュア=救いが書かれて

いるのです。しかもエデンの園から飛び出した後も、その後も

荒野でもずっとイエシュアが付いてきたのです。

新しくされている人、神の似姿の実態が取り戻されている、

同じ救いの実態=同じ福音がずっと語られ続けているのです。

聖書の中では。最初の最初から同じ。

 

人間の神学では歴史の途中までは仮の助け、許し、

贖いしかなかったと教えるのです。それは異邦人=

異教の神々の中で生まれ育った人たちの思考回路、

哲学思考による解説です。ヘブライの神が語る事と

人間の語る解説は異なるのです。書いてあるので

自分で読めばわかります。

先入観の色眼鏡をかけないで読めば見える。

 

神の言葉で語られる世界は、本当に”信じ難きを信じる”世界

なのだと言うことなのでしょう。神の方法、やり方は人の

理解を超えている。始めの始めから分かりづらい。

信じるしか無い世界です。

 

一つ以上で全く一つの神と書いてある。分かりにくい。

理解出来ないです。人間的な思索では分からない世界。

そして永遠と言うコンセプト。神は自給自足、共依存の

存在では無い。人がいなくちゃ満足できない、生きては

いけない、そんな存在では無い、”在りて在るお方”と言う

名前=実態=言葉で表されている。

 

神が全てを造られたから、神のみぞ知る世界を、

神がヘブライ思索、ヘブライ語を通して、また神の言葉を

保存し続ける唯一の民族を選び出して大家族の長として

世界へ伝える事の責任を負わせたこと、全てが人間的に

考えたら何も分かりませ〜んと言う世界。

 

そして、神の言われる事に、人間は一切異議申し立てる

事は出来ないのです。陶器は陶器師にあれこれ言う

立場に全く無い。

言われたことを、そのまま受け取り信じるだけの

世界が人間には与えられている。それが実は嫌なんですよね

人間は。でも、神が言われる言葉だけ、それでなければ、

全て人間の考えのまぜもの、人間哲学の世界に変身して

しまうからそれはダメと言われる理由もクリアーです。

 

創造主であるお方だけが語られる世界が、聖書に書いて

あるのです。人間の注解、人造の教えを付け足さないで

読む。

 

ヘブライの世界は、絵画的言語です。見たら分かる、理解

出来る事で表されてる言葉がたくさん在ります。

例えば、肥沃の地に種を撒き、水や適切な環境があれば

どの様にその種が根を張り、成長するのか農耕民族は知って

いる。

水の辺りに植わった木が時が来れば実が成ると書いてある

言葉から、古代の人がそれらを見たら、その中に書いてある

思索、神が何を言われているのか見える。

 

水とか地とか何を表しているのかを知れば分かる。

その水と言う言葉も、イエシュアと繋がり、

雲と言う言葉とも繋がり、そして地とは、人の頭脳=

神の言葉をそのまま受け取る地=頭脳として書かれている。

 

木もそうですね。そしてエデンの園に成る木、

命の木=生ける水だけを取り入れれば、

時が来れば実がたわわになる。

水を取り入れる=神の言われる言葉だけを

取り入れて生きる。

同時に今では”脳の中に出来る脳回路は、木の枝

そっくりそのままです。脳の中にエデンの木がある。

全部繋がっています。

 

アブラムが、創世記17章で、神から直接語られ、確認された

下りを書きましたが、ここに書いてある乳房を持つもの

と言う言葉も絵画的言語です。

乳房を持つもの。全能の神と翻訳では書いてありますが、

古代の人が”乳房を持つもの”<エル=神、シャダイ=

乳房がある>とヘブライ語で聞いたら何を考えるのでしょう。

アブラムの耳には、全ての命の源、命は神から出て、

神が守り支える存在である。神の与えるものだけから、

生きる。それが全て、そこから教えられ、養われて生きる、

そのお方から語られている言葉だと考える。

 

そして、顔です。

 

続く