出先や旅の途中、まして異教の国々の地では、シャバットを
ガードするのに、ハードルが高い場合があることを感じます。
仕事、学校の活動、そして普段と変わらず時が過ぎて、
”神の造られた記念日”に止まり、家庭で家族で仲間で
祝おうと言う雰囲気や教えが微塵にも無いからです。
イスラエルなら、”シャバット”では、止まる準備に入り、
町、国全体の設定、お膳立てがあるので、顕著にそのメリハリを
体験出来ます。シャバットを体感できる。雰囲気があるのです。
神の記念日で、神が言われたように、家族で止まると
言うことを、イスラエルでは少なくともするからです。
金曜日から土曜日日没までは、止まる。
でも、異教の地では、シャバット=止まる日も何も変わら
ないまま、動き続けて行きます。仕事があったり、学校まで
あったり、コンビニは24時間開いているし、
ネットカフェも24時間、お店やレストランもここぞ
とばかり深夜過ぎても開いている。
山ほど宿題や課題をやり続けたり、お父さんも帰宅した後も、
ずっとメールや仕事の続きをやり続けたり、家族と向き合う
時間も取らないまま、自分と家族のために止まる事をしない。
神はイスラエルが、神の言葉をないがしろにし、神の言葉=
トラーに反した生き方を続けたゆえ、エデンの園から飛び
出したように、約束の地からも飛び出して捕囚にとらわれて
行くことを、約束の地に入る前に預言しました。そして異教の
地でも同じように神の言葉=神のデザインした衣食住の生活の
全て、そして神の記念日、祭りを祝うように記されています。
イスラエルと言う民族だけでは無い、神が造られた人類は
同等に同じ人間であるのです。何か違いがありますか?
動物とて同じです。同じ神の創造物として止まる。
人類は同じ家族であることが書かれています。神に造られた
全てのものも働かせることをしないで止まらせる。
最後は二つのステイックがぴったり一つにくっつくと
書かれています。同じぶどうの木に後から接木された
枝は異邦人。別々の木に接木されるとは書かれてない。
イスラエルの同じ羊の囲いに、異邦人=別の羊も入れられると
はっきり書いてある通り、別々の教え、別々の契約、
別々の生き方、別々の記念日などをするようになどとは、
全く書かれていないのが聖書にある事実です。
同じ記念日を将来全世界が生きるようになる日が来ると
書いてある事実だけに戻る。
それを、今実際に参加するように促されているのです。
天の現実を今生きる、子羊の婚姻の宴へのリハーサルでも
あるのが神の記念日=福音の中身の全貌なのです。
聖書の世界、古代のヘブライの世界に戻って考てみる。
聖書に書かれている世界は、ローマの教えの世界ではなく、
ヘブライの、イスラエルの神の創造された世界なのです。
歴史の途中で、ローマは神の言葉を引き剥がし、否定し、
捨てるように教えましたが、今終わりの時に、再び
古代、太古、永遠から語られた同じ福音が再び聞かれる
時がくると、詩篇78に預言されています。
イエシュアが生粋のヘブライ人に生まれた理由が
ちゃんとあるのです。日本人では無い、アメリカ人でも
無い。それは神が他の人種を差別して、ないがしろいして
いるからなのでしょうか?
世界の中で、異教の神々に仕えて生きる人たちの中で、
”灯台”=世の光の役割。ここに戻れ!と言うことを
教えるために、世界とは分かたれている存在として選ばれた
イスラエル。そのイスラエルの神の声に応答する人たち=
カハール<教会と言う造語は、クリスマス、イースターと
共に聖書にない人間が後から造った言葉です。
キラキラネーム。当て字と同じです。>
カハール=エクレシアは、歴史の始めからミックスで存在して
いるのです。ノアもアブラハムも異邦人です。
イスラエルと異邦人の混合の1つの家族、グループ。
ここに戻るとは、どこに戻るのか?イスラエルの神!
イスラエルの神が語られている事は、どこで知ることが出来
るのか?神が直接語られた言葉=トラーの中に全部、必要な事が
書いてあるのです。それを読まなければ、知る事が出来ない。
空想、想像の世界で、確信が掴めない。照らし合わせの
神の言葉の証拠に戻れば、確認、確証出来る。
それ以外では、別の霊、自分の体験がイコール、基準、
神になってしまいます。
異教の神々の教えと混ざったままでは、見えない神の
世界=神の言葉を保存して生きる人たち=地の塩の
役割を預かっている。
続く