西洋人が編み出した神学により、1つの神の言葉である書=
聖書が分断されてしまい、歴史の前後で、呪いで仮の律法から、
本物の福音の内容、神の贖い、完了の業の質や内容が変わった、
変化したと言う教えが世界へ長い歴史の間に浸透し、
信じ込まれ、神の永遠普遍の言葉=約束=契約=保証に対する
大きな誤解を編み出したまま聖書を読んでしまうと言うことが
起きたのです。
1世紀のイエシュア信者たち=そのほとんどがユダヤ人なの
ですが、そのイエシュアの信者達は、トラーが終わったと
して生きていた人達は、誰一人も居ないのが事実です。
もしトラーを捨てて生きることが、イエシュアの教えと
するなら、それこそ、それは1世紀当時に於ける、別の福音、
異端の教えとして追放されるカテゴリーに入るものです。
西洋神学など存在しない1世紀のヘブライの世界、生粋の
ヘブライ人達=トラー=神の言葉に忠実に生きていた
イエシュア信者達、昇天前も昇天後も変わらずにトラーの中身
を生きていた事実が、福音書以降もはっきりと書いてあります。
永遠の契りである印の、シャバットを第七日目に生きて、
エルサレムの神殿で神の祭り、記念日を生きて、神の指定した
きよい動物の捧げ物を神殿で行い、そして、神の宮である
人達も、同様にきよい動物だけを食べ、生活の細部に渡り、
トラー=神のインストラクション通りを生きていたのが
聖書に書かれているイエシュア信者達の暮らしなのです。
書いてある事だけを、土台にして読み続ける、検証、
考え続ける必要があるのです。人の空想や創作された教えを
土台になど決してしてはならないのです。聖書に書いてある
事だけを元に忠実に神の言葉を読む。
神の言葉が変化した教えなど、聖書のどの箇所にも書いて
ないのが事実です。
福音書以降は、トラーを否定した教えが語られたと考えれば、
聖書に書かれている箇所の前後左右の文脈、脈略や、語られて
いる論点を捉えずに、盲目的に読んでいるから、トラーを否定
した教えを、パウロが使徒達がしていると誤解しているだけ。
使徒、パウロ、1世紀時代の聖書に登場するイエシュア信者の
中で、トラーは終わったと考えている人は誰一人として
登場していないのです。もしトラーは変化した、廃れた
終わった契約=約束と言う教えをする人がいるとするならば、
それは”別の福音”に走ったとパウロが説明しているそれに
該当するものです。
考えたら分かります。神がユダヤ人を見捨てて、異邦人に
新しい契約を与え直したなどど、トラーを知るユダヤ人が
どうして考えると思うのでしょうか?神の言葉を元にすれば、
人の解説が矛盾だらけなのです。ユダヤ人が、福音書以降を
異端の別宗教の教祖様の教えで、忌むべきものとなぜ
思うのか?考えてみるのです。どうしてだろう?と。
あなた達は神に見捨てられた。あなた達への契約約束を
神が放棄したと言う教えが西洋神学です。そんな教えを、
トラーを知るユダヤ人が聞いたら、本物の救い主では
あり得ないと思うのは、当然のことなのです。
人の教えが、人を本物の救い主へ来ることを妨害している
ことに気が付いたら早いのです。
神が、ユダヤ人と一旦結ばれた契約を破棄すると言う
ことは、神の言葉に基づきそれが事実なのでしょうか?
トラーの中身を知るユダヤ人がそんな事を考える訳ないと
知らないとならないのです。ユダヤ人ならそのような仮説
教え、神学に対して抵抗し続けるのです。
神の言葉に基づいたら真実ではないから。
彼らは、イエシュア昇天後も引き続きトラーに書かれた
ライフスタイル=生活の細部に渡り、神のインストラクション
=トラーを生きていたのです。生活の全て、衣食住全ての点に
於いても。
聖書に書いてある事だけを元にすれば、はっきり西洋神学と
神の言葉とのすれ違い、矛盾点を見い出すことができます。
なぜ、パウロ達、使徒達、1世紀の信者はイエシュア昇天後も
神殿に参り、祭りをし、”生贄”と訳されるコバーンの捧げ物、
動物を屠っていたのだろうか?と、考えてみれば分かります。
トラーが永遠に有効であり、神の家の中で行われる事は、
仮の罪の許しのためのものでは無いからです。
しかも、イエシュア=救い主が地上に再び来られたら、
すぐに仮庵の祭りが行われる。今度は全世界が神の祭りに
参加し、そしてコバーンを捧げられる時が来ると書かれて
います。
西洋神学を元にすると、神の言葉で記されている内容と、
全く辻褄が合わないことが聖書に書かれている
ことになってしまうのです。
仮の教え=律法=呪い=旧約聖書と言う、これらの言葉、
定義の全ては本来のヘブライ語言葉とは全くマッチしない
不適切な言葉で解説されていますから、全部削除して聖書を
読むのです。
聖書=1つの神の言葉、どこも矛盾、変化、聖書の中で
一つが他方を否定する教えなど1つも書かれていない、
神の口から出た言葉は、永遠普遍、岩であり固く揺るがない
変化しないと言う聖書の事実に戻して、神の言葉を読み直す。
以下の箇所は、イエシュアが語られた言葉です。
イエシュアは、昇天後、契約、教え、神の言葉が変わると言う
前提の、仮の教えを語られているのでしょうか?それが真実
だとするなら、父の言葉=仰せ=御旨を語っているのでは
無いことになります。前提を本来のものに戻せば、クリアーに
見えます。イエシュアは永遠普遍の真理、真実=父の言葉の
語る所のトラーの真意、意図を解説をしているのです。
マタイ5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、
兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、
そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその
兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることに
しなさい。
供え物=コバーン=生贄と訳されているきよい動物、神が指定
した作物のコバーンの事を話しているのです。
エルサレムの神殿の祭壇=神の家=茶の間、家族が一番親しい
交わりをする場所です。この場所で、神の意図通りの修復が
行われるのです。
誰でもずれたら、相手に謝りたい、許してほしいと思うのは、
神のデザイン、神の子の性質だからです。それをイエシュアの
許しがあるから、人を傷つけても、誤解されたまま、仲違いを
放置しても良いのだとすると、それは全くずれた教えです。
誰でも、ずれたら謝りたい、相手から許され、再び正常な
親しい関係に戻りたいと願うものです。それが、神の家の
茶の間=祭壇で行われる。許し、許され、受け取られ、
元の状態、関係に戻るプロセスの、究極のお手本=モデルを
神の家の中で教えられているのです。トラーの中身です。
コバーン=動物の捧げ物は、仮の罪の許しのためにあるのでは
無いのです。
エルサレムにある神の家は、イコール天に実在する私たちに
用意されている神の家。地上で見ること、触れること、
体感出来るレプリカ=そっくりそのままの天の現実を
地に映し出すそのものの=影=シャドーコピーなのです。
イエシュアは父の言葉=仰せ、御旨をだけを発言する、行う
ために来たと言われたのです。古代のヘブライ人なら、
父の言葉=父の仰せと言ったら、シナイ山で婚姻儀式を
通して、父から与えられた”モーセの五書”=トラーに
書かれた神の言葉の詳細と、解説しなくても、誰もが理解
している前提でイエシュアが語られているのです。
トラーの中身を熟知しないで、トラーが終わり、トラー=
神の言葉の70%を捨てよと言う教えをした西洋人教父たち
の教えを土台にしていたら、聖書も曲がって見えてしまう
のは仕方がない事なのです。お家元では無い、トラーの中身
を、学ばない、知らない人の解説が真実では無い。
永遠普遍の神の言葉だけが、神の真実を語っているからです。
続く