西洋神学=人の編み出した教えと神の言葉の矛盾に気が付いたら | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

西洋人が編み出した神学により、1つの神の言葉である書=

聖書が分断されてしまい、歴史の前後で、呪いで仮の律法から、

本物の福音の内容、神の贖い、完了の業の質や内容が変わった、

変化したと言う教えが世界へ長い歴史の間に浸透し、

信じ込まれ、神の永遠普遍の言葉=約束=契約=保証に対する

大きな誤解を編み出したまま聖書を読んでしまうと言うことが

起きたのです。

 

1世紀のイエシュア信者たち=そのほとんどがユダヤ人なの

ですが、そのイエシュアの信者達は、トラーが終わったと

して生きていた人達は、誰一人も居ないのが事実です。

 

もしトラーを捨てて生きることが、イエシュアの教えと

するなら、それこそ、それは1世紀当時に於ける、別の福音、

異端の教えとして追放されるカテゴリーに入るものです。

 

西洋神学など存在しない1世紀のヘブライの世界、生粋の

ヘブライ人達=トラー=神の言葉に忠実に生きていた

イエシュア信者達、昇天前も昇天後も変わらずにトラーの中身

を生きていた事実が、福音書以降もはっきりと書いてあります。

 

永遠の契りである印の、シャバットを第七日目に生きて、

エルサレムの神殿で神の祭り、記念日を生きて、神の指定した

きよい動物の捧げ物を神殿で行い、そして、神の宮である

人達も、同様にきよい動物だけを食べ、生活の細部に渡り、

トラー=神のインストラクション通りを生きていたのが

聖書に書かれているイエシュア信者達の暮らしなのです。

書いてある事だけを、土台にして読み続ける、検証、

考え続ける必要があるのです。人の空想や創作された教えを

土台になど決してしてはならないのです。聖書に書いてある

事だけを元に忠実に神の言葉を読む。

 

神の言葉が変化した教えなど、聖書のどの箇所にも書いて

ないのが事実です。

福音書以降は、トラーを否定した教えが語られたと考えれば、

聖書に書かれている箇所の前後左右の文脈、脈略や、語られて

いる論点を捉えずに、盲目的に読んでいるから、トラーを否定

した教えを、パウロが使徒達がしていると誤解しているだけ。

 

使徒、パウロ、1世紀時代の聖書に登場するイエシュア信者の

中で、トラーは終わったと考えている人は誰一人として

登場していないのです。もしトラーは変化した、廃れた

終わった契約=約束と言う教えをする人がいるとするならば、

それは”別の福音”に走ったとパウロが説明しているそれに

該当するものです。

 

考えたら分かります。神がユダヤ人を見捨てて、異邦人に

新しい契約を与え直したなどど、トラーを知るユダヤ人が

どうして考えると思うのでしょうか?神の言葉を元にすれば、

人の解説が矛盾だらけなのです。ユダヤ人が、福音書以降を

異端の別宗教の教祖様の教えで、忌むべきものとなぜ

思うのか?考えてみるのです。どうしてだろう?と。

 

あなた達は神に見捨てられた。あなた達への契約約束を

神が放棄したと言う教えが西洋神学です。そんな教えを、

トラーを知るユダヤ人が聞いたら、本物の救い主では

あり得ないと思うのは、当然のことなのです。

人の教えが、人を本物の救い主へ来ることを妨害している

ことに気が付いたら早いのです。

 

神が、ユダヤ人と一旦結ばれた契約を破棄すると言う

ことは、神の言葉に基づきそれが事実なのでしょうか?

トラーの中身を知るユダヤ人がそんな事を考える訳ないと

知らないとならないのです。ユダヤ人ならそのような仮説

教え、神学に対して抵抗し続けるのです。

神の言葉に基づいたら真実ではないから。

 

彼らは、イエシュア昇天後も引き続きトラーに書かれた

ライフスタイル=生活の細部に渡り、神のインストラクション

=トラーを生きていたのです。生活の全て、衣食住全ての点に

於いても。

 

聖書に書いてある事だけを元にすれば、はっきり西洋神学と

神の言葉とのすれ違い、矛盾点を見い出すことができます。

 

なぜ、パウロ達、使徒達、1世紀の信者はイエシュア昇天後も

神殿に参り、祭りをし、”生贄”と訳されるコバーンの捧げ物、

動物を屠っていたのだろうか?と、考えてみれば分かります。

トラーが永遠に有効であり、神の家の中で行われる事は、

仮の罪の許しのためのものでは無いからです。

 

しかも、イエシュア=救い主が地上に再び来られたら、

すぐに仮庵の祭りが行われる。今度は全世界が神の祭りに

参加し、そしてコバーンを捧げられる時が来ると書かれて

います。

西洋神学を元にすると、神の言葉で記されている内容と、

全く辻褄が合わないことが聖書に書かれている

ことになってしまうのです。

 

仮の教え=律法=呪い=旧約聖書と言う、これらの言葉、

定義の全ては本来のヘブライ語言葉とは全くマッチしない

不適切な言葉で解説されていますから、全部削除して聖書を

読むのです。

聖書=1つの神の言葉、どこも矛盾、変化、聖書の中で

一つが他方を否定する教えなど1つも書かれていない、

神の口から出た言葉は、永遠普遍、岩であり固く揺るがない

変化しないと言う聖書の事実に戻して、神の言葉を読み直す。

 

以下の箇所は、イエシュアが語られた言葉です。

イエシュアは、昇天後、契約、教え、神の言葉が変わると言う

前提の、仮の教えを語られているのでしょうか?それが真実

だとするなら、父の言葉=仰せ=御旨を語っているのでは

無いことになります。前提を本来のものに戻せば、クリアーに

見えます。イエシュアは永遠普遍の真理、真実=父の言葉の

語る所のトラーの真意、意図を解説をしているのです。

 

マタイ5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、

兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、

そこで思い出したなら、

5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその

兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることに

しなさい。

 

供え物=コバーン=生贄と訳されているきよい動物、神が指定

した作物のコバーンの事を話しているのです。

エルサレムの神殿の祭壇=神の家=茶の間、家族が一番親しい

交わりをする場所です。この場所で、神の意図通りの修復が

行われるのです。

 

誰でもずれたら、相手に謝りたい、許してほしいと思うのは、

神のデザイン、神の子の性質だからです。それをイエシュアの

許しがあるから、人を傷つけても、誤解されたまま、仲違いを

放置しても良いのだとすると、それは全くずれた教えです。

 

誰でも、ずれたら謝りたい、相手から許され、再び正常な

親しい関係に戻りたいと願うものです。それが、神の家の

茶の間=祭壇で行われる。許し、許され、受け取られ、

元の状態、関係に戻るプロセスの、究極のお手本=モデルを

神の家の中で教えられているのです。トラーの中身です。

コバーン=動物の捧げ物は、仮の罪の許しのためにあるのでは

無いのです。

 

エルサレムにある神の家は、イコール天に実在する私たちに

用意されている神の家。地上で見ること、触れること、

体感出来るレプリカ=そっくりそのままの天の現実を

地に映し出すそのものの=影=シャドーコピーなのです。

 

イエシュアは父の言葉=仰せ、御旨をだけを発言する、行う

ために来たと言われたのです。古代のヘブライ人なら、

父の言葉=父の仰せと言ったら、シナイ山で婚姻儀式を

通して、父から与えられた”モーセの五書”=トラーに

書かれた神の言葉の詳細と、解説しなくても、誰もが理解

している前提でイエシュアが語られているのです。

トラーの中身を熟知しないで、トラーが終わり、トラー=

神の言葉の70%を捨てよと言う教えをした西洋人教父たち

の教えを土台にしていたら、聖書も曲がって見えてしまう

のは仕方がない事なのです。お家元では無い、トラーの中身

を、学ばない、知らない人の解説が真実では無い。

永遠普遍の神の言葉だけが、神の真実を語っているからです。

 

続く