2000年以降は、新しい教えになり人間の食べもの規定も変わった? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ15章

10. それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、

「聞いて悟るがよい。

11.     口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、

口から出るものが人を汚すのである」。

 

この箇所のイエシュアの論点の意図、指摘を読んで、

ヘブライの世界=トラーに生きる人達は、何を話しているのか

この議論の論点がクリーアにブレズに、分かるのです。

ヘブライの世界の人とは違う文化、思考回路の異邦人は、

殆どの場合、これから後に記事に載せようと思っていますが、

イエシュアがトラーを終わらせて、新しい教えを

説いているのだとする、全く違う解説の根拠だとしています。

 

2000年以降、トラー=律法と訳されていますが、

本当のヘブライ語の意味は、”神のインストラクション”です。

ヘブライ語には、神の言葉を指して”律法”と言う言葉を、

神の言葉に対して、使われない、

書かれていない事実があるのです。

ひとつずつ、忠実に事実に戻すと、今まで見聞きして来た

事と、神の言葉の真実とに、ずれがある事に気がつけます。

 

その神のインストラクション=トラーが、2000年迄に、

与えられていた”呪い、呪縛の律法”だとする、

異邦人思考から出た教えが語る、その様な考えをする時点で、

神の言葉の性質、永遠不変性、神イコール=言葉

である聖書の事実、神の言葉の意図が見えなくなってしまい、

内側の外側の圏外に飛び出しています。

 

イエシュアが地上に来られたので、今までの律法の呪縛、

呪いは解かれたので、2000年以降何でも許される、

そして、何でも食べて良い新しい契約になったと、

言う教えを聞いて来ました。

そして、その教えを聞いた人達もその様に神の言葉を解説、

主張、伝達し続けています。

でも、人間の神学とは違う、オリジナルの神の言葉の意図

神の言葉に書かれた通りそのままの、違う解説があるのです。

 

トラーのある部分を終わりとする人間の教え。

人間の体を、バラバラに切り離して丸ごと人として存在

出来ない様に、神の言葉もばらせない、解体できない。

一点一画も取り去り、付け足せないと書いてある。

神が永遠に生きて居る様に、神の言葉も永遠に有効、

生きて居る。変化しない。

終った教えと、今も有効の教えがあると、

勝手に人間の解釈の物差しで、仕分けして決めている

だけです。

 

そして、2000年以降、神の言葉が変わった根拠として、

この様な箇所を読み、イエシュアがここで、トラーが

終ったのだと語っている根拠、証拠ですとする勘違いを基に、

人間の都市伝説と言うものが生まれてしまったのです。

 

今は恵みで何でも許される様になった、新しい神の教えが

2000年以降現れた、造られたと言う、聖書の事実ではない

意味不明なフレーズを、皆が唱えて、

それが世界に流れ続けているのです。

 

呪いの神、呪いの時代。恵みの神、恵みの時代。

その教えは、聖書の中の一体どこに書いてあるのか?

そんな事はどこにも、書いてなど無いのです。

そう書いてあると思い込んでいるだけ。

永遠から永遠に、恵みと許しと愛と、憐れみに富む神と

御自身が自ら御自分の性質を自己紹介されている、

イスラエルの神の性質とは、全く異なる教えだからです。

 

ヘブライ思考、ヘブライ聖書とは全く異なる、歴史を線上に

眺める事をする人間ギリシャローマ哲学分断思考

=デスペンスされた神の性質に関する教え、

人間神学から生み出された考えです。

 

全て、神の言葉=トラーを否定する教えは、

聖書に書かれている、神の言葉とは異なる教えだと言う事実を、

全部内容の詳細、意味が理解出来なくても、分からなくても、

正しい前提=神の言葉は永遠不変と言う神御自らの宣言を、

ぶらさなければ、理解すれば、神の言葉の方を取って

信じ続ければ、神の言葉の真実が見えて来ます。

 

神は、神御自身がデザインされた人間の生活全てに関して、

気を配って下さっているのです。

食べる事、飲む事、仕事する事、家庭、社会生活の、

生きる事の全ての側面、全ての分野で、詳細に

インストラクションを与えて下さっている事に

気がつく事が出来れば、神の言葉は、律法ではない事が

見えて来ます。神、親=律法を与える方ではないから。

神の言葉は不変、人を縛り付けるためではなく、

神のデザインしたその詳細を知らせない事には、

トーヴの状態では無い生き方、人にとって安全では無い

教えを取入れて、傷つく、別の姿に、流されて行って

しまうからです。

幻=神の目からみる事の無い民は滅びると書いてあるのは

それです。

トラー無し=的外れのまま彷徨う。

私達が安全に、健全に、神がデザイン通りの人間の命を、

生活を生きられるために、神の言葉=トラー、

インストラクションがあるのです。

 

これが、見えて来くれば、歴史の途中、4世紀以降、

神の言葉に、別の人間の教えを付け足して、

”トラーは2000年以降終った”と言う教え、

宗教の教えに変身させ、信仰の土場を、神の言葉=トラーが

語る主張から、人の神学へと、乗り換えてしまった事実が

はっきり見えて来るはずです。

 

2000年以前は、厳しい掟を生きて、義とされようと

頑張ったが無駄だった、イエシュアが来て、代替え策を

与えた後、トラーは消滅、破棄されたのだと言う教え。

 

トラーを、神の意図通りに生きる様にイエシュアが教えに

地上に来られたのに、完了の業で、まことの命が取戻されて

いる事実を教えに来たのに、その神の言葉契約を生きる事は、

律法主義なのだ〜と人の教えは語る。

 

律法主義とは、神の言葉=トラーを生きる事を指して

言うのでは無く、神の前に救い、義を得るための目的、

その目的を達するために、トラーを生きる事が、いかに的外れ、

律法主義的生き方であると書いてあるのです。

義は、神から与えられる以外、獲得出来ないものだからです。

100%フリーギフト。贈り物。

人間の努力、行い、手柄で得られる性質の物ではない。

人間の行ないで、義を得られるとするならば、

アバ父が用意された完了の業が無駄になります。

 

 

 

続く