神の言葉の真実より 人の教えの伝統の方を重んじ死守すると不自由になる マタイ15章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ15章

3.   イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも

自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。

 

イエシュアはダイレクトに、直球を内角に投げ込む如く、

トラー教師達の質問に対して、答えています。

自分達の言い伝えを優先するあまり、神の戒め=ミツボットを

破る、又は正しく受け取り、神の言葉の意図通りそのままを、

なぜ生きてないのか?と、彼らに質問しています。

 

4. 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母を

ののしる者は、必ず死に定められる』と。

5. それだのに、あなたがたは『だれでも父または母に

むかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、

と言えば、

6. 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。

こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、

神の言(ことば)を無にしている。

 

この箇所を読むと分かる通り、神の言葉、意図を簡単に

曲げて、自分達が納得する教えを作り出し、神の意図に

反する、矛盾した教えを主張している、

彼らのズレさ加減を指摘しています。

 

詰まり表向きの形だけを理解して生きているから、

何が大事なのか?と言う事を捕らえないでいると言う問題の

中核を付いています。

 

大事にしなければならない人に対しての、実態を

ないがしろにしている。

親を大事にしないものは、死に定められると、神の仰せを

知っているのに、両親が困っていても、これらの捧げものは

神への捧げものだから、あなたを助けるためには差し出

せませんと言えば、その神の言葉を退けても良いとしている。

神のためだからと言い、大事な家族を二の次にする、

家族の大事な時に、神への捧げもの、又は神に仕える時間と、

家族を助けない事、そばに居ない事が、神の仰せだと

思い込む。その本末転倒に気がつかない。

神の仰せは、全て”人が神の意図通り、安全に欠けがなく

生きるためのもの”なのに。宗教に変身する。

 

両親の必要を今目の前に目の当たりに見ても、

この捧げものは、神に捧げますと言えば、両親をないがしろに

しても良い、神の前に正しい事だと人に教える。

神の言葉の意図通りの生き方ではなく、

人間の作り出した教えや、自分達の伝統を何より重んじて

生きて居ると言うことを、イエシュアが指摘しているのです。

 

本末転倒の生き方なのに。シャバットは人のために造られたと

言う事にも繋がる教えです。宗教の教えを生きるために、

神が人が造られたのではない。神は全てを人のために造られ、

人が安全に、神のデザイン通りを生きるために、

神の言葉がある。命のパンとは人が、健全に

安全に生きるためのもの。

人が、神の言葉の意図とは違う宗教の教えのために、

ズレてしまい、喜び奪われ、翻弄させられて行ってしまう。

 

7. 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、

こういう適切な預言をしている、

8.    『この民は、口さきではわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

 

口先=人間の造り出した、ドグマ、教理に長けているだけで、

行動、生きると言う、神の命そのものの実態が伴わないまま。

人間の理屈の教えを唱えていれば、あたかも、

神に仕えているが如く思うが、実は、神の意図の中身とは、

外れた圏外の場所に生きて居る。

心=思考回路が、神のものと外れた場所にある、生き様が

伴わない、“白く、表だけ塗られた墓”の実態にも

通じる警告をしています。外側はそれらしくても、

内側は、命の無い墓場、死、空っぽ、神の目には価値無し

無意味と言う意味。

 

9.     人間のいましめを教として教え、
   

 無意味にわたしを拝んでいる。』」。

 

人間の教えなのに、あたかも神の教えの如くに人々に教え、

それで、無意味=空、実態の無い教えを生きて、

無意味に神を拝む。それなのに、自分達は、

神の実態の命にピッタリ沿って、生きて居ると

勘違いしていると警告しています。

 

そして、この箇所も、“主よ主よ”と、主の御名だけは、

口先で唱えても、神の真実に属さない事をして、

神の実質からかけ離れた事をやっているので、

それらは“わたし”のものではない、

わたしはあなたを知らない=あなたは、わたしと深い関係の

世界で繋がれていない。あなたの生き様は、わたしの命の

実態とは無関係ですと言うと、

イエシュアが言われた通りの事とも繋がっています。

 

人間の教えに仕えているだけで、神の実態、命の実の無い、

不在の空っぽ、名ばかりのもの。神の命を生み出す事が

出来ない生き様。

詰まり、神の名を唱えて、色々やれば、全部神に属する

仰せに思わされてしまう、危険が潜んでいる警告にも

繋がります。

知らない間に、人間の教えに生きて、窮屈に縛られ、

そして他者をも窮屈に縛り、奴隷に逆戻り状態。

 

ヘブライの神の言葉、トラーを読んで居ても、

肉の頭脳、割礼の無い頭脳、目のままから読めば、そして、

人の教えを上塗りすれば、いつの時も、神の言葉の意図は

削がれ、薄められ、変形し、命を生み出す生き方に、

繋がって行かないと言う警告です。

 

神の言葉の真実、真理では無い事を、信じて生きれば

どう言う事になるのか、はっきり書いてあります。

”あなた方は、真理を知り、真理はあなた方を

自由にします。”と言われたイエシュア。

あなた方は、真理では無い事を知り、

神の言葉を誤解すれば、不真実な教えは、

あなたを不自由=奴隷状態、出エジプトしたのに、

新しくされた命を取戻して頂いたのに、

又人の教えの奴隷=エジプトに逆戻りさせられて

しまいますと言う事なのです。

だから、神の意図通りをまず、その通りを知る、

神の言葉を知る事は、本物の自分、

完了の業を生きる戸口に立つための、何よりの

大前提である事が、書かれているのです。

 

 

続く