1月1日にお正月を盛大に祝うのは日本だけ? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨今日本は、お正月でも、お店は開いていて、

普通よりは営業時間が短くても、コンビニは24時間稼働し、

レストランも開いています。

以前の日本は、この年末年始の時期、少なくとも大晦日から

数日は店が閉じ、銀行や会社もお休みでした。

そして、日本の年が明けると同時に、たくさんの

ラインメッセージが入りました。

もう、今では年賀状など余り書かないらしいです。

そして、私もイスラエルの友人と長い事、話しました。

親族で集っている日本の家族ともライン画像電話で

話しました。

便利な世の中になったなと思います。

以前は、手紙か電話で海外と日本でやっとやり取りしていた

頃とは全然違います。

 

大晦日、お正月を1月1日に盛大に祝うのは、

日本だけではないかなと思います。

海外でも、カウントダウンだけして、後は1日が一日だけ

お休みで、2日からは通常の営業、学校もありと言う感じで、

特に特別なお料理も、行事も何もありません。

アジア近隣諸国は、1月1日ではなくて、太陰暦の

旧正月を盛大に祝います。

 

調べて行くと、日本のお正月にまつわる数々の事実が、

あります。

春の過ぎ越の祭りと重ねた要素が、日本のお正月の中に

見られます。

 

日本では、学校も、企業も4月始まりと言うのは、

”過ぎ越”のある、第一の月と関係があるのかとも

思います。

”過ぎ越の祭り”、春が第一の月と教えた、古代ヘブライ人が

日本に来た事は間違いないと思います。

しかし、トラーの要素があれど、過ぎ越の祭りの原型が、

神の言葉通りがピュアに保存されずに、別の宗教の形に

変えられてしまえば、結局混ぜ物の教えです。

 

又”過ぎ越”の意味通り祝わず、祝う時期、祝う日、月をも

変えてしまえばこれも、只の人間の文化の祭りへと変身し、

神の意図通り=福音そのもの通りのその意味も消え

去ってしまったと言う事です。

何故その祭りを、その行事を、その慣しをしているのかも、

分からないままになると、言う事なのだと思いました。

 

伝統行事や、記念日の背景には、必ずと言って良いほど、

”宗教”の教え、意味、信条が存在します。

そして、それらの記念日に飾る飾り物、お供え物、食べ物

にも全て、宗教的な意味があります。

 

日本のお正月に関しても、調べて行くと分かります。

海外のお正月や、記念日にも、その様な”印” ”飾り”

”食べ物”が必ず付いてまわります。

除夜の鐘や、年越しそば、お正月の門松や飾り、

餅つき、お屠蘇、食器、お正月料理の全てには、

宗教的な意味が背後にあるのです。

 

しかし、それを知った上で、年越しそばを食べようが、

おせち料理を頂こうが、除夜の鐘の音を聞こうが、

お屠蘇を飲もうが、果ては偶像に、仏壇に捧げたお供え物の

食べ物を食べようが、それは、全く影響を受ける事も

ないのです。

我が家では、自ら率先してお正月飾りや異教の神々の

印を帯びる祭りの飾り物などは、今は一切しませんが。

意味を知ったら、出来ない事があると言う事が分かりました。

以前は分からないから、伝統、慣し通りに、皆のする通りを

していただけで。

 

お正月は、家族や親戚と集まる事が出来る良い機会であり、

楽しい思い出がたくさんあります。

皆が休みで、集れる時に、その団らんを楽しむと言う事を

十分にすれば良いのだと思います。

いつまで、一緒に居られるのか、いつまで会える事が出来る

のか、明日の事は誰も全く分からないはずだから。

 

今現在を”異教の神々の国”に於いても、神の造られた神の暦、

聖書の暦、”主の日”=神の定められた日を、

家族で生きている今は、国の祝い日に対しても、

以前とは大分違う感覚を持つ様になりました。

宗教の造った、国の文化が造った祭り、記念日は

記念日として、同じ様に休んだり、遊びに行って楽しんだり

もします。

 

でも、主の日は、家族の中で全く別格、

特別な日、主の造られた主の呼び出し日、

主が止まりなさい、特別な日として、取り分けなさいと、

仰せられた通り、特別に、聖別する日になったのです。

これは、本当に祝福の源である事を知りました。

イスラエルの神の子らの印を帯びて、生きる幸いを

味わい知る事になっています。

 

そして聖書に書かれている”主の日”=シャバットと、祭り。

1年のサイクルの始めの祭りは、春の時期に来る”過ぎ越”。

私達の人生は、全て”過ぎ越”から始まったからです。

本物の人生への旅路は、神に再び繋がれる、呼び出される、

奴隷状態から引き出されたあの出エジプトが原点。

それぞれの人生の出エジプトがあって”救い”=イエシュアに

出会ったからです。

 

一年の第一の月。

出エジプトした、過ぎ越を祝う事から始まり、

秋の仮庵は、一年の締めくくりの最後の祭り。

祭りの無い、春を待つ今の長い冬の時期は、

1年の中で一番厳しい時期です。

死んだ自分の残骸、本物の自分を生きる邪魔している

包皮は何か?とはっきりと知らされる時期だからです。

一番深い刈り込みの時期。

今年は、何を削ぎ落とす様に教えられるのか?

はっきり気がつきます。日常生活で起きる全ての

出来事を通して、アバ父がはっきり教えて下さるから。

 

そして、今は春が待ち遠しい。