宗教改革と言う言葉を、私が以前聞いた時、これで全てが
がらっと元通り=神の意図通りになったのだと思いました。
しかし、中身を知ると、1世紀に生きていた、イエシュアの
フォロワー達と同じ信仰、同じ生き様、ライフスタイルに
戻ったのでは、無かったのです。
宗教改革とは、ある部分の聖書に対する捉え方の間違いが、
訂正されたと言う事であり、ヘブライルーツ=神の言葉に、
100%戻ると言う事は、実は無かったのです。
どんな宗教改革があったのかと言う事は、ネット上で検索、
調べると色々と出て来ます。
大きな誤解の元は、様々にあると思うのです。
詰まり、その根底には、2000年以降、今迄の教え=トラー
が破棄され、より優れた最新式の新しい契約、教えが出現
したと言う”教理”、人間の解釈や教えを土台に聖書を
眺めれば、神の言葉を、違う意味に読み込みをしてしまう
からです。
前提は、”神の言葉”は永遠不変。この大前提を、外す、
揺るがしたら、どんな教えも出現可能になってしまいます。
神の忠告を忘れて、神の言葉の中身を変える事は御法度。
”一点一画も取り去り、付け足すなかれ”と、
はっきりクリアーに神の御口から警告されているからです。
ユダヤ人は、命を知らない、イエシュアを知らないと
言います。
いや、イエシュアを知っている、信じているユダヤ人は
実は世界にいつの時代にも存在しているのです。
私も、ヘブライ聖書に書かれている、
本物のイエシュア像を、彼らから教えられました。
それまでは、別のイエシュアを信じていた。
同じ名でも、中身、実態、顔、声音まるで違う、
途中で約束を変えると言うイスラエルの神を信じていました。
その原因は、人間の教えから眺める、見る、救い主を
ずっと聞かされていたからです。
そして、彼らのライフスタイルは、異邦人の信じている、
生きて居るものとは、異なるのです。
それは、神が造った二つの福音があるからではないのです。
私達が聞いて来た西洋宗教の教えと、ヘブライ聖書、
原典聖書に書いてある事実そのものが、実は、
ずれがあるからなのです。それには、聖書に書かれている
内容をまず正しく知ると言う大前提をしない限り、
どこが人の教えで、どこが神の言葉の真実なのか、
見分けが出来ないと言う事です。
いや、見分けられますが、人の教えの色眼鏡をかけて
読み続けたら、神の言葉の真意を、
誤解し続けたまま行くと言う事です。
異邦人はユダヤ人から福音を聞いて来たのです。
神がユダヤ人を、その様な役割に生きる様に任命された
事実があるからです。永遠からの選びです。
只、彼らの中の多くの今の現状は、西洋宗教が唱える所の
”救い主”がトラー、預言書、諸書に書いてある”救い主”
であると言う認識が出来ないだけです。
その理由は、クリアーです。聖書の事実と、西洋宗教の
教えがマッチしてないからです。
トラー、預言書、諸書を終わりとする教え、
神の言葉を、終らせたと言う教えから出る救い主像では、
聖書とは違う別の救い主だと思うのは、当然の事だからです。
聖書に忠実に、何が本当に書いてあるのか読んで見れば、
そこには、100%丸ごと、ヘブライの世界、永遠不変の神の
世界しか書かれていない事に、誰でも必ず気がつけるからです。
ルーツは西洋か、ヘブライか位は、誰でも見分ける事が出来る。
当時の宗教改革者達は、これまでに在った、
教会内数々の間違いを認める様に迫りました。
指導者層=階級制です。
人間の作り出した教えに疑問を抱くのは当然の事です。
変だと思っても良いのです。それは、もしかしたら、
腹に書かれたトラー、でも聖書に書かれたトラーが
何か分からない時に、根拠、つかみ所の無い疑問として
自分の中にグルグル渦巻くからです。危険シグナル装置が
人の腹=DNAの中に備えられている。
これひとつだけではないですが、詰まり聖書ではない教えを、
神の真実、聖書の教えと教えられ、それを生きる様に
させられて来たと言う事です。
しかし、それでも、4世紀に出現した”人造教理、神学”が、
根こそぎ変わった訳でも無かったのです。
宗教改革あれど、神の言葉に、聖書に100%戻ると言う事は、
無かったと言う事実を揺るがさない事です。
高き所は、まだ取り除かれていない。
この時点での改革は、教皇、司教、司祭 この様な階級体制
の解体です。それらは、聖書に無い教えです。
ピラミッド式組織の中に、人がはめ込まれて、機能させられて
行く。
神に仕えたいと願う人達は、結婚を禁じられる。
それは、トラーとは全く違う教えです。聖書の読み方が
間違っていると言う事です。
そして、一つの大家族には別々の役割があると言う事は、
事実です。
神の知恵に満ちた長老が居れば、ちゃんと家族のメンバーを
指導出来るし、正しく教え導く事が出来ると言う事。
でも、人が人の上に立ち、誰かが誰かを、人が人を支配、
命令、コントロールする事とは全く違います。
もしそうであれば、人は自分で考える意志さえも
剥奪されてしまうと言う事です。
この様な階級制度があれば、在る立場に在る人はまるで、
神の権威を頂き、人の上に立って人を支配している錯覚を
起こす事があると思います。
人が人の人生に対して、コントロール、指示、命令を下す。
”自分の言う事、イコール神からの言葉である〜”と言う様な
発想や、態度や発言を幾度と無く聞いた事が有りますが、
それって、とても不思議な感覚だと思います。
普通の人が聞いたら、”変じゃないの?”と普通に
分かりますが、洗脳されている場合は、
この人の言葉に反する事を自分が考えたら、行動したら
私は神に逆らってしまうのかもと思い込んでしまうのです。
一つの家族の中には、別の役割、立場があります。
聖書に書いてある“王”の立場は、全ての国民に必要を供給、
世話をする立場であると言う事からも分かる様に、
責任を任された人は、神の意図通り正しく導き、全てを治め、
人に仕える立場になるのであり、人を、コントロール、
支配する立場ではない自覚が必要な事はクリアーに
書かれています。
続く