聖体冒涜の噂で出て来たものに、“血の中傷”と言う噂が
あります。
その噂の内容は、ユダヤ人は過ぎ越の祭りや、
その他の祭りの儀式用に、特にクリスチャン、
異邦人達を殺し、儀式用に血を採取していると言う噂です。
これらの噂は、根も葉もない噂、根拠も、事実でも
何でも無いものです。
詰まり、ユダヤ人を迫害する、ユダヤ人のトラーより勝る、
ローマ皇帝新宗教が何より真実だとする証拠を造るため、
ユダヤ人を迫害して、トラーも捨て去り、追いやって、
封じ込めないとならないと考えた教父達が居たからです。
私達が疑いもなく信じ込んでいる様々な神学、
2000年以降始めて救いが出て来た。
そして、新時代の新しい契約、トラーは終わり、
異邦人が新しい契約を受け取った代表者であると
言う、又は、神の目からではなく、肉の目から
眺めたままの教え。
人は将来”新しい人”を得る事が出来るなど、
世間一般に信じ込まれている教えは、実は歴史の中で、
誰かが作り出した教えなのです。
ギリシャローマ思考哲学の目、肉の目から眺める、
ヘブライの世界、ヘブライのトラーの解釈に過ぎない
だけなのです。
実は、この様な人が作り出した神学に由来するだけで、
神の言葉の真実ではない事が無数にあります。
嘘なのに、あたかも真実だとして、
この様な噂が、当時の世間に浸透してしまったのです。
ローマ皇帝宗教信者達の主張では、彼らの血は気高き香りが
あるので、ユダヤ人臭のある血を消し去るため、
ユダヤ人がそのような、クリスチャン殺人をすると言う噂を
立てたのです。
はっきり言うと、ユダヤ人が、異邦人の血が清らかだなどと
考える訳が微塵も無い理由があります。
何故なら、異邦人は、神の禁じている汚れた食べ物を
平気で内側に取入れ、汚れた物と同化しているからです。
ユダヤ人に取って、その様に、神の言われる事を無視する、
神の禁じている汚れたものと交わる、食べる事を、
何より拒絶していたからです。
使徒15章のエルサレム会議の内容を読んでも分かる通りです。
ユダヤ人信者達が、どれだけ偶像礼拝や、神の禁じている
汚れている食べ物を、異邦人信者達が食して取込む事に、
トラーに基づき敏感であった事が、ちゃんと書いてあります。
使徒15章を読んで、ある人達は、”ほら、トラーは、
異邦人達には関係無い。この4つだけを、守れば良い時代に
なったのだ。”
とトラーが終わりとする根拠としていますが、
エルサレム会議の意味が見えて来ないからだと思うのです。
異邦人は、この4つの点以外、トラーを破り、
無法状態=トラーレスで生きる事が、
正当化されたなどと、どこに書いてあるのでしょう?
使徒の15章は、ユダヤ人と異邦人が同じ食卓に着く時に
これだけは守って下さい。ユダヤ人を不快にし、抵抗感を
与えてしまいますから、と言う事柄の4つの項目なのです。
食卓を取り囲んで交わりをする上で、お互いを不愉快に
させないために、それを避けるための、
急遽取り決めた提案なだけなのです。
日本人でも、目の前で、ワニや蛇の姿焼きを食べる人達と
食卓を共にしたく無いと、どん引きするでしょう。
それと、同じ事です。
一緒に食事をするなら、神の禁じた食べ物を食べ、
汚れたものに触れた状態で、同じ部屋に入って来てほしく
無いと言う事です。
クリスチャン殺しのこの噂は、増々変形して行きます。
ユダヤ人がクリスチャンの赤ちゃんを誘拐し、殺して
その体をすりつぶして、過ぎ越の祭りのマッツア=
種無しパンを造ると言う噂です。
これも、全く嘘だと分かります。
過ぎ越の祭りで食する、これが本当の聖餐式である、
そのパン=マッツアが何ものか、分からない異邦人の
考える所だからです。
マッツアとは、水と小麦粉以外何も入れてはならない
パンだからです。
余計な物を混ぜると言う考えそのものが、ヘブライの世界を
知らない、異邦人の造りだした、只のユダヤ人叩きの
噂であると分かります。
そして、ユダヤ人は生血など、食さないのです。
トラーには、人間が食してはならない食物がはっきり書いて
あるので、神の禁じている食物など、ユダヤ人は
決して口にしないからです。
当時の異邦人信者達も、本当は聖書に書かれている事を
知らなかった証拠がこうした所に現れ出て来ます。
これは、本当に分かります。神の宮には、汚れたものを
持ち込めない、取込めないと言う事に繋がるのです。
神の宮=神の子らは、神の宮=自分の体の中にも、神の宮に
持ち込めない汚れた食べもの、動物、物、異物の教えを
取入れる事は出来ないからです。
神の宮の定義は只一つ。トラーの中身に書いてある通りの
ものです。そしてその定義は不変です。
トラーを捨てれば、神の宮の定義は無くなって
しまいます。只の人間創作の定義になってしまいます。
自分は神の宮であると言うならば、神の宮である状態が
どんな状態でなければならないのか?と言う、
聖書に書かれている内容を知らないとならないのです。
続く