宗教 ユダヤ教 キリスト教 メシアニック その違いとは?イズムとは?? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

〜教=イズムと言うのは、イエシュアが来られる以前、

紀元前5、6世紀頃に出来たものです。

 

イズム、何何教とは、神の言葉に人の教えを

付け足したものです。それがイズム=宗教です。

 

タナック=トラー、預言書、諸書を指してそう呼びます。

トラー、ナヴィーム、ケトウヴィーム。

<Torah, Navi'im, Ketuvim.>

その頭文字を取って、タナック=Tanakhと呼ぶのです。

ちなみにナヴィーム=預言書のナヴィは、ナヴィゲーターの語源となったナヴィです。

 

タナックの中には、宗教の教えなど書かれていません。

神の言葉は、宗教や宗教活動をやるためのものでも

ないのです。

タナック、いいえ、創世記から黙示録=聖書には,

神の言葉のみが書かれているのです。

 

神の言葉=命のパン=神がデザインした人間の生きる姿は

どんなものなのかの全てが書かれているのです。

そして、イスラエルの神は、どんなお方か?

 

イエシュアの時代には、当然ユダヤ教なるイズムが

ありました。

第一神殿時代の教え=口頭トラーと、第二神殿時代の教えにも

差があります。

口頭トラー=神の言葉=トラーを実際の日々の生活の中でどう生きるかの解説=その中に、人間の教えが混じったものが

入っていたのです。

 

イエシュアが戒めていたのは、神御自身の口から出た言葉=

トラーの事ではなく、人間が造り出した宗教の教えに対して

戒めていたのです。

人間の教え。

トラー学者が唱える、口頭トラーの中身が

神の言葉=トラーの解釈とずれているその事を、

イエシュアが戒めているのです。

神が神の言葉を否定、排除したなんて言う

人間の神学=神の言葉の真実ではない事を知れば、

聖書に書かれている意図がはっきり見えて来るようになります。

 

神の言葉に、人の教えを混ぜると、宗教になってしまうのです。

100%天然ではなく、合成添加物入り、合成物になる。

命のパンは、イズム=宗教ではなく、純粋な神の言葉。

神の言葉のみを土台に、生きなければ、まことの命が

死んでしまうのです。純粋でピュアな水の中に別の液体を

混ぜたら中に居る魚は死ぬのと同じです。

 

大雑把に書くと、私自身はトラー<それを信じる人は、ユダヤ教と呼ぶのだと勘違いしてました>が、2000年前の古い仮の教えで、人の生きる事が出来ない律法をなんとか努力で

生きる世界の教えであり、命無し、聖霊も救いも無い世界。

そして2000年以降は、キリスト教なるものが出て、神の言葉が塗り替えられ<どこに新しい契約の書が書かれているのか?

そんな書は存在しないのに。>、変化し、最新版の神の言葉

、教えになって、命=聖霊が人の中に始めて宿ったのだと思っていました。

 

その教えとは全く違う事が、聖書に書いてあるのに、

盲目でした。

書いてある通り=神の言葉は永遠不変と言う事だけを、

土台にすれば、ちゃんとそれだけで、神の言葉は、創世記から

黙示録まで変化なしと分かるはずだったのに。

 

これも、違ったのですね。完全に。

聖書に戻れば明らかに書いてある。神の言葉は永遠不変。

神の言葉は宗教〜イズムでは無い。

私の中の勝手な思い込みでした。でもそう教えられて来たから

疑いもせずに、その人間の教えを信じていたのです。

 

誤解を解いて行くと見えて来ます。

神の言葉は、宗教ではないのです。

永遠不変の神の言葉、内容不変の契約なのです。

腐敗、終わり、賞味期限も無い。

 

しかも、申命記など、古代の契約書の形態そっくりそのままで

書き綴られているのです。だから、分かるのです。

神と人との関わりの全てを定義したものである事。

永遠に神の側では、破棄されない”契約”である事。

それは、儀式を持って神が、天と地を承認に全世界に向けて

分かる形で現して下さったのです。封印の意味がなんたるか?

が分かれば分かる事です。

シェケムと言う場所で交わした、アブラハムとの約束も、

シナイ山で行なわれた、あの”儀式”も同じです。

 

神のトラーには、神にどのように関わり近づくのか?

人とはどんなデザインのものなのか?

神に造られた人達は、どの様に神と関わり、生活の全部を

生きるのか?丸ごと書かれています。

イスラエル国家の憲法でもあるのです。

 

神の言葉は、途中で変わったりしないのです。

そこが異邦人の弱い点。神の言葉が、変わると簡単に

思える意識が、ヘブライの世界の人達とはまるで違うのです。

 

神の言葉が変わるという教えを土台にしたら、どこまでも

どんな形にも変形出来ます。考えてみたら分かると思います。

 

”変わる”と、”絶対に変わらない”と言う土場はまるで

違うものになるからです。

変わる=何を基準にして、どこが変わるのか?人間の判定、

基準、曖昧限りないものなのです。

 

人間が神の言葉を定義した神学を、神の言葉の上の権威に置いてしまうと、神の言葉が見えなくなって行きます。

違う教えに変身する。

これをずらさずに考えると、いかに宗教なる物に

変身したのかが、分かります。

 

そして、もっと分かりにくいのは、キリスト教なる宗教の中にも

たくさんの派や宗派??が在りますね。

だから、キリスト教と言われても、一つにくくれない。

カトリックから派生、枝分かれしたものが、

プロテスタントです。

その中にもたくさんの派があります。

教えは七変化。変わるのだから、どの解釈も

可能と言えば、可能になるわけです。

 

カトリックとプロテスタントは、その信仰信条に様々な

違いはあれど、その大元、根は同じです。

その教えの共有部分、ヘブライ色のある、

トラーの中身を切り捨てた所は全く同じです。

 

続く