現代の文学やエッセイを読む場合、特に日本のものの場合は、
登場人物の生活、衣食住一般容易に想像出来ます。
映像も頭の中に簡単に浮かび上がりますし、画像が載っていれば
より一層深く内容を理解出来ます。
私個人の場合ですが、以前聖書を読んでいても、
そこに登場する人達が”同じ人間”であるのに、
同じ人間に思えない感覚が、常につきまとっていました。
想像出来ない〜と言う単純な理由です。
顔無し人間みたいな、全然想像が出来ない。
古代の遥か昔の、全然違う外国の人で、
違う文化、違う生活の人達。
彼らの姿を全く想像出来ませんでした。
もちろん”進化論”なんて信じてませんから、同じ人間には
違いないとは頭の中では知っていましたが、
現代の人間と同じ感情があり、生活の中で同じ様に
笑ったり泣いたり、同じニーズがある同じエッセンスで出来た
同じ人間、その人達が生きていた事が、聖書に書かれているのに、全く想像出来なかったのです。
顔の無い人達が出て来る感じです。
どんな服を着ているのか、どんな風に暮らしているのかさえも、
想像出来なかったのです。彼らの国、文化、原語、様子、暮らしを知る、手がかりが、全く無かった事が、
一つの大きな原因でもあるのですが。
聖書を読む時に、想像を駆使して、画像を思い浮かべる事は
とても大事です。
でもその元になる、”映像” ”画像”に対してのアイデアがゼロ
だったのですね。手がかり無し状態。
荒野で40年旅をしたと言う下りを読んでみても、
ピンと来ませんでした。全然ピンと来ない。
実際に”荒野”なるものが何かと言う事、砂漠とは全然違う
性質の場所。
こんなカラカラでかんかん照りの、夏は50度にも達する
様な、水が無いなら直ぐ死んでしまう場所。
その場の中に立ってみて、その場所の性質、地形、空気、
様子、土地を知って、そして、そこの場所を大群衆が移動して、キャンプ生活したのだと言う事を、よくよく考えて行くと、
それがどんな事だったのか見えて来るのです。
こんな場所を、一生涯旅して過ごすと言う事がどんな事なのか
見えて来るのです。
神の助け無しに一瞬も生きては居られない場所。
エルサレムにある”ダビデの町” ”イル ダヴィード”と
言います。
エルサレムの神殿の直ぐ出た場所にあります。
このエルサレムと言う地は、とても意味のある土地である
事を、学んでみると分かって来ます。
エルサレム。モリヤ山。シオン。
これらの名前とそして、神のトラーの名前と、神の家がある場所、そしてここで起きた出来事、そしてダビデの町の地形
そのものを見ても、全部神からのメッセージになって
いる事が分かります。
ダビデの町は、遺跡が今もぞくぞくと発掘されています。
ずっと発掘作業が続いています。毎年毎年新しい発掘が進んで
いますから、毎年違うものが見られると言う状態です。
その一部を見てみると、ある”民家”が在った場所があります。
柱が建っていて、入り口だと分かる場所があり、その部屋も
いくつかに仕切られていますが、とても小さいのです。
それでも、立派なお金持ちの家なのだそうです。
詰まり、普通の人は、家など建てて生活などして
いなかったからです。
普通の人はどう言う生活かと言うと、”テント”生活です。
キャンプ生活。一生がテント生活です。
そして、考えてみると分って来る事は、
今の様に、様々に物事が、国が安定していないと言う事。
国が安定して、国が無くなるなんて考えても見ない世界。
家があり、暮らしが安定していて、そんなに困らないと
言う世界とは全く違う。
生きると言うそのものが、常にサバイバル状態だと
分かるのです。死といつも隣合わせの世界。
続く