ギリシャ人間哲学思考とヘブライ思考の違いの実際 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ギリシャ哲学思考と、聖書ヘブライ的思考の何が違うのか?と

言う事をもっと実際的に知ると見えて来るものがあります。

 

例えば、”水槽”が在ったとします。

これを、説明して下さいと言う場合に、ギリシャ思想とヘブライ思想の世界では全く違う事を解説するのです。

 

ギリシャ思考は、この水槽はどんな大きさで、どんな素材で出来ていて、どんな色形で、いくら位の値段がするとか、

その様に”定義”をする世界。全ては解説の世界です。

 

ヘブライ思索は、実用の世界。実際に生きる事に

還元する世界。

これに水を入れれば、魚の水槽にもなるし、

非常時のための貯水箱にもなる。

昆虫を飼うのに良いかもしれない。

これをひっくり返して中に、色々な物を入れれば、飾り物の

箱にもなるしと、全ては”活用”の世界です。

 

神の言葉は、全て”生きるため”のものです。

聖書に書かれている様々な事、その中に書かれている意味を

知って行くと、こんな事を言っていたのか?と気がつくだけで、

それを、本気で信じる場合は、生きる事に生かして行く事が

出来る事が分かります。

 

しかも、私が10年前まで何が分からなかったのか?と言うと、

福音書から、黙示録までは、”短い一言”で書かれている言葉の

中に、トラーの中身の集大成、何十ページの中身が

凝縮されていると言う事。

聖書の前半、しかも聖書の殆どを占める三分の2の箇所を

真相を意図を、深く知らないと言う事がどう言う状態をもたらすのか?と考えてみても分かるのです。

 

しかも、その一言の間にたくさんの行間があり、そこさえも

読み取ると言う前提なのですから。

どれだけ、分からないのか分かって来るのです。

 

これが分からない原因だったのです。

これが見えて来ると、何で分からないのか?

分かるにはどうするのか?

詰まりトラーを知らなければ、見えない事が見えて来るのです。

 

なぜなら、福音書から黙示録までは、トラー、そしてその解説の預言書、諸書を深くくまなく知っていると言う大前提が備わっている人達に向けて書かれているから、一言で何を言い表しているのか、その行間までくまなく理解出来る人達が読んで、

初めて意味が分かると言う事なのです。

 

なんでこんな事が書いてあるのだろう?

なんでこの人はこんな事して、癒されようと思ったのだろう?

一体この”物”はトラーの中で何を意味しているのだろう?

この色は、この出来事は事件は何を意味しているのか?

この言葉の意味する所は、現している内容、真理は何だろう?

と言うそんな事の中に実は、トラーの中身で語られている

その意味がしっかり、深く書かれている、皆その意味を

知っていると言う前提で書かれている事なのです。

 

そして、聖書の中に書かれている”名前”や物事や、出来事、

数字、絵画的言語、聖書の土台となるコンセプトを知れば、

読んでみただけで、何がその中に書かれていて、

その意味が何なのか、勝手な思い込みではなく、

古代ヘブライの世界の人達が誰でも知っていた内容を知れば、

見えて来る事がたくさん浮き上がって来るのです。

 

その様な事を知る手がかり、情報をもっと得られる様に、

神の言葉を学ぶ、古代ヘブライ聖書の世界の様々な事を

知って行く事には、重大な意味と、鍵がある事は

否定出来ない事実だと確信を得る事なのです。

 

収穫は多いが働き手が少ない。

導いてくれる人がなくてどうして知りえましょう?

その言葉の中に、深い事実が凝縮されていると思いました。

 

だから、聖書の中に書かれている事を、まず神の言葉その通りに

正しく知る、教えてもらえれば、誰でも見えて来ると

言う事も事実なのです。

そして、大前提は”割礼”を受けた頭脳。

二心に気がつく事。

神の目から見る通りを見る事。

神の完了の業=神の似姿にされている事実=を疑わずに

信じる事。

これが無い限り、結局自分の信条に頼る、宗教に走る、

自分に納得出来る教えに、ハマって行くと言う事だと

思います。