ギリシャ的思考=ギリシャローマ人間哲学思考の世界と、
聖書的、神の言葉の中でのヘブライ的思索の世界は根本的に、
思考回路、捉え方、物事の見方が違います。
10年前の自分はこの様な思索の違いがあると言う事さえも
全く分からないままでした。
その様な考えの違いがある事さえもまるっきり、発想の中にも思い浮かぶ事などありませんでした。
詰まり自分は、自分の学んで来た世界、生きて来た世界で
培った、思考回路の分厚い色眼鏡をかけたまま、
聖書を読んでいた事にも、気がついてなかったのです。
しかも、神学と言う聖書とは違う教えを土台にしてしまって、
神の言葉を読む弊害、障害物の大きさたるや。
いや神学から神の言葉を学ぶのではなく、神の言葉を
直接知ると言う事をしない限り、結局混ざりものの教えに染まり
純粋なみ言葉を学ぶと言う事が出来ないままと
言う事に気がつく必要があるのです。
人間の目から見た神の言葉=神学と言う土台を、
排除しない限り、神の言葉に覆いがかかったまま、
いや別ものに変身してしまい、真相が見えないままに
なってしまうからです。
人は、それぞれに、培って来た”先入観”があり、
物事の捉え方が違います。
聖書的ヘブライ的思索の世界が、今迄自分の学んで生きて来た
世界の思考とはまるで違う事を知る事は、聖書を理解する上で
不可欠な事だと言う事も事実です。
以前にも書いた事がありますが、ギリシャローマ哲学思索で
物事を考えると言う世界には、神の言葉からの様々な
”人造神学”が生まれて来るのです。
その思考回路は、ヘブライ思想の様に、”永遠”から物事を
見ているのではなく、歴史線上に人間の目から見た通りを、
分断思考で見ている世界です。
永遠の中に全てが造られ、完結していると言う発想が
まるで無いのです。
聖書は時空を超えて、この世界の時も超えて、人間の発想を
遥かに超えて、前後左右に、行ったり来たりの集積を
書いてある事でも気がつく事が出来ます。
ラビ達の世界に、ギリシャ思考の様な”神学”の論争など
ないのです。
何かと言うと、ヘブライ思索は、みな”実用”の世界だからです。
”神の言葉を、いかに生きるのか?”と言う事が論点なのです。
それを、”ハラハー”と言います。
イエシュアがある一部のパリサイ派やサドカイ派の人達に
戒めていた事は、この”人造のハラハー=口頭トラー=
神のトラーの解説とはマッチしない、トラーに関しての人造の
解説、教え”に対して、戒めているのです。
イエシュアはトラーが終った話などしていないのです。
それこそ矛盾だらけの教えになってしまうのです。
イエシュア御自身が、トラー、預言書、諸書=まるごと
自分と言われたのですから。
イエシュアの語られている内容は全て”トラー”そのもの
だからです。この誤解を解けば、聖書が見えて来るのです。
ハラハーと言う言葉は、”歩く”と言う言葉と同じです。
実際に生活を生きる上で、歩く上、トラーをどう生きるのか?
が論点の中心なのです。
神学に関する論争ではないのです。
なぜなら、”神学”ではなく、神の言葉があるから
それを覗けば良いのです。
しかし、そのいかに生きるのか?の世界で、人造の教えが
たくさん造られた事も、聖書には書いてあるのです。
”マタイ23:4
重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で
動かそうともしません。”
現代でも、あるラビ達が”解釈”した通り=ラビ解説のハラハー=口頭トラーの中の生き方しか認められないと言う、
縛り付けの世界も存在するそうです。
どの世界も人が神の上を超える権威になると、
ずれた方向へ行ってしまうのです。
だから、そんな窮屈な教えに辟易している人達もいる。
かぶり物=髪の毛の話に繋がりますが、実際にその辟易する口頭トラーの一つに、結婚した女の人達は、髪の毛を全部剃り丸刈りになる。
道理でイスラエルでは、みんな女性は同じ様な髪型をして
いるなと思いきや、あれは”カツラ”だったのです。
トラーに女性が髪の毛を剃れなんて教えなど書いてない。
何で髪の毛を剃るかと言うと、”結婚した女性”は他の男性に
魅力的に見えては駄目だからと言う理由らしいです。
これこそが、人造口頭トラー=イエシュアが戒めていた
事に当てはまるのです。
でも一方、その反面”健全な生き方”をしている人達も
居るのです。
家庭をしっかり守り、家族を愛し、トラーを子供達に教え、
健全にトラーに基づき家庭生活をし、仕事をする人達。
世界は、今神の呼び出し、招き=神の言葉に応答する人達が
ぞくぞくと起こされている事実もあるのです。
続く