荒野で神の声だけに聞き入る 命が守られるために | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

10年前に、初めて私の恩師となって下さった方々に

出会いました。

 

ずっとずっと知りたいと思っていた事。

聖書の中に何が本当に書かれているのか。

それは、原語に戻れば、もっともっと深く広く

分かる事は掴んではいたのです。

 

以前に、原典聖書からの解説をちょっと聞いた時に、

全然違う世界が見えて来る事に気がついたので、

そんな風に聖書を知る事が出来たらどんなに楽しいだろうと

ずっと思っていたけれど、どうしてよいのか、当時は手がかりも何も無かったからです。

 

プラス今の時点で分かった事は、原語だけが分かっても

分からないと言う事です。

 

神の目から見る、人間とは?イスラエルの神とは?人が生きる姿は?どうやって過去の死んだ自分と相対するのか?

癒されるのか?そして、神が永遠不変である事。

それが全部聖書の中にちゃんと書いてあるのです。

 

聖書が全く一つの相反する、異なる内容が書かれている書ではなく、一貫して同じ事が語られている事を知らないならば

分からなくなるのです。

真実と不真実は繋がらない。二つの異なるものを点と点で繋げなくなるから、広がらなくなるのです。途中でどこかで滞る。

 

聖書に語られている基本となるヘブライ思索のコンセプトを理解して、初めて色々見えて来るのだと言う事。

 

ギリシャローマ哲学思考から、聖書を眺めるのと、

ヘブライ思索から聖書を眺めるのと全く違う世界だからです。

だから、イスラエルの神は神の純粋な言葉=契約=トラー=聖書を、ヘブライ人に託した。世界へ神の言葉を告げ知らせる役目を

与えたのが分かるのです。

 

私達は、元を辿れば、人はヘブライ人から福音を伝え聞いた

のです。神がイスラエルを契約の命を保存し、世界へトラーを

伝える役割を与えた事が書かれています。

それを聞いた人達は、純粋な神の言葉を伝達する役割を

与えられたのですが、途中で歪んでしまった事も聖書には

書かれています。別の福音にそんなに早く走るとは。

何故か。純粋な神の言葉、原点、原点に留まらないで混ぜ物の教えを造り出すからです。

だから、イスラエルがズレたら、世界が混乱するとある通り、

責任が重たい、だからイスラエルに対する、神の訓練も

同時に厳しいのです。家の長男、家長としての責任は重たい。

 

ギリシャローマ=分断思考。ヘブライ思考=エハッド=一つ。

歴史線上に時を分断する思考ではなく、永遠から全てを見る。

そして、人間が罪人と言う思考の出発点と、

人が、神の似姿にされていると言う思考の出発点では

全く違う別世界が語れてしまう事でも分かるのです。

 

人生で今まで聞いた事もない、ヘブライ語で書いてある聖書の内容を聞いた時、それは、只只純粋に聖書の言葉、基本的コンセプトなどの内容だったのですが、別の世界の扉が開いて吸い込まれて行く、惹かれて行く、探らないで入られない世界に入り込む

不思議な体験をしました。

そしてその旅路がずっと続いています。

 

聖書にはこんな事が書いてあったのか!!!凄い事が書いてある。

光が差し込む。慕わしくて仕方ない世界。

ヘブライ語で書かれている聖書の中での、アバ父の声のトーンが

まるで違う。私が聞いて生きた教えの世界とは、全く違う

ぐんと近くて、優しくて、輝いていて、あたたかくて、

自分が誰かを教えてくれていることが分かる。

あなたは罪人の性質、実態の人だよなどとは語ってなんか

いないのです。

 

はっきり書かれている。神の似姿にされている人。

自分がそれを受け取り信じるか信じないかそれは

あなた次第ですとある通り。

わたしと同じ聖なるもの、聖徒たちへと書かれている。

真っすぐに天に向かって生きる人。

全く違う世界が語られている。

神の似姿にされているのに、まるで違う生き方をしていると言う

忠告が書かれているのです。人は命か死を、

常に選択出来るからです。

罪にズレて行くのは、以前の自分の自己像のまま、選択し続け、

発言し続け、生き続けるから。

神の完了の業で取戻された本当の自分で生きよ!と

聖書には書いてあるのです。

 

そして、そのアバ父は、子供達が破壊されないために、

”毒や害不正やゆがみ”を甘く見ない厳しさが同時にある。

それは、閻魔大王の様な怖さではなく、私達人間が

破壊されないため、安全に守られるためなのです。

それで良いのです。それでなくてはならないのです。

 

親が自分の子ども達を守るためにそれは必要な事なのです。

例えば幼い子供達の部屋に、野犬を入れて子供達を

かみ殺される様な事を親は敢えてするのでしょうか?

いや、大事な子供達を、歪んだ自己像の破壊的な大人、

神のデザインとは違う事を教え込む人に、教育をわざわざ託す

でしょうか?来る日も来る日も毒素な教えを叩き込まれたり、

いや逆に縛り付けられたり、否定されたり、そんな

所に教育を託さないでしょう。危ないから。

変な事教えられてしまうから。

 

そう言ったものを、取入れては、大事な子どもが汚染されてしまうので、取入れては駄目と言う事は、神の知恵であるのだと

分かります。

 

続く