これらは来るべき世界でも、同様にイスラエルの神の”トラー”を
リバイバルされた内側=誰も主を知ろうとは言わない状態に
なった人々で、全ての人の腹の中に書かれたトラーを生きる日が来る。
その時、世界の全ての国民がイスラエルの神のトラーを生きる様になる事が、聖書には書かれています。
テンポラリー、仮の教えではない、イスラエルだけへの教えではない。神に造られた人間全ては、神の家の子らのデザインを
皆で生きる日が来る。
何も欠けが無い姿、シャローム=全ての人が神のデザインの
ホールネス=丸ごと、全部、何も欠けた所の無い状態で生きる日が来る事が書かれている。
永遠不変の神の言葉、契約、約束、人間の生きる姿が再び全世界の人の間で復元される。
イスラエル国民だけの仰せなのだと言う教えは、
聖書に戻ると真実ではない事が明らかに書かれているのです。
何が聖書に書いてあり、何が書いてないのか、はっきり
読み取る必要があるのです。
全ての国民、イスラエルの神に造られた人類に向けての
一つの神の書、契約だからです。
エゼキエル 44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭(過ぎ越から仮庵までの一年に渡る全ての祭り)の時は、彼らはわが法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
33:15 すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。
イザヤ 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日=シャバットを守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。
ゼカリヤ 9:7 またその口から血を取り除き、その歯の間から憎むべき物を取り除く。これもまた残ってわれわれの神に帰し、ユダの一民族のようになる。またエクロンはエブスびとのようになる。
14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭(仮庵は一年の最後の締めくくりの祭り 詰まり祭りは全部でワンセット)を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
エゼキエル18:17 その手をひいて悪を行わず、利息や高利をとらず、わたしのおきてを行い、わたしの定めに歩むならば、彼はその父の悪のために死なず、必ず生きる。
20:13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、
20:16 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。