人間の教えを通して、神の言葉を眺めたら
見えない。
神の言葉だけを基準、根拠にすれば見えて来る。
狭き門。それを見いだす人は稀とある通り。
注意深く、聖書を読む。何が書いてあり、何が書いてないのか
をちゃんと把握する。
ちまたに流れる主流の教えや、神学を土台に考え、
その目から聖書を眺めていたら、入れない領域。
安息=ナファーシュ、神の与えて下さった実態、
関係、安らぎ。
でも、神の言葉だけを覗き込み続ければ、簡単に
入れる世界。努力で入る世界では無いから。
神の真実と出会う門。狭き門。人間の努力ではない。
ただただ神の言う言葉だけ=聖書だけを覗き込む。
神の言葉とは異なる人の教えに聞き入らなければ良い。
それらが聖書に基づき神の言葉とはズレていると
気がつけば良い。だから神の言葉を知らないとならない。
今、この世で損なわれないために。まことの命を生きる事を
阻まれないために。喜びの中に生きる事を奪われないために。
神の言葉だけを通して神と出会う。
顔と顔を合わせる本当の出会い方。
神の言葉は永遠不変。
これによりイスラエルの神がどんなに真実なお方なのか
知って行く事が出来る。
イスラエルの神が、途中でコロコロ約束や言葉、契約を変える不完全なお方であるなんて思わされていたら、
神の実態に出会えない。
そして、あなたは誰か?と言う事を疑わせる教えを
聞き続けない。それはエデンの園の地を這う動物の声と同じ。
”本当に神はそう言ったの?あなたは神の似姿に造られた人なの?何か足りないから、付けたししなくちゃならないよ。
知識の木から食べたらそうなれるよ。”
もう神の似姿の人達であったのに、疑った。同じ事。完了の業で神の似姿の人にもうされている。それが福音だから。
それこそ、狭き門。ちまたは、神の目から見たあなたは誰かと
言う事とは全く違う教えで氾濫しているから。
真実=神の言われる真実だけにフォーカスする。
あなたは誰か? 神の完了の業で購われた人。
神の似姿の人。その実態を今この地上で生きれる様に
されている。それが神の完了の業、イエシュアの死と
復活で示された、永遠から存在する業。
今地に居ながら天の現実を歩めると言う福音の
事実を先取りし、知る特権を与えられている。
それをかき消す教えを、全部排除。
しがらみなんて、関係無い。自分を守るには、
神の言葉の鎧兜だけを身につけないと危険。
神の言葉を知るのは、神がそう言われたから。
何故?それは自分と他者とを安全に保護、ガード
喜びの中で生きるため。ただそれだけ。
何かを知って、自己顕示欲示すためでもなんでもない。
同じ一つの大家族が神のデザイン通り、幸せで、助け合い
喜びの中に生きるため。ただそれだけ。
エデン=神の内側の外側に飛び出たままでは、危ないから。
破壊される、損なわれる、傷つく、失う、迷い出たまま
彷徨い続け、辛く苦しいままになるから。
”危険!!!”ここに戻って!
神の中へ、神の言葉の中へ、エデンの園の門に立つチェラビムと
同じ。ここに戻って!とそれを知らせるため。
安全地帯に、神の中に皆が戻るため。それが福音。
神の言葉とは違う言葉に聞き入ったら、一生堂々巡り。
本当の自分に出会えず、本当の人生を歩むスタート地点に
も立てないまま、揺るぎながら、彷徨いながら
欠けている何かをうめるため、様々に探しまわり
満たして下さい〜〜〜と叫び続けて、現状は、
渇いたまま。
生ける水の中に浸かっていたら渇かないとイエシュアが
言われた通り。
渇く=飛び出ている証拠。症状だから。
だから、神の言葉だけにフォーカスする。
人の教えを聞いたら、渇く、迷う、疑う、神の言葉を
信じる事を妨げられてしまう。
だから、自分が誰かと神が言われる事を
本気で信じる事が出来ず、頑張って将来手に入れるのだと
思い込んでいる。それが広き門を入る結末。
狭き門よりはいりなさい。神の言葉だけを通りなさいと
今日も教えて下さっている。
永遠不変の真実である神の言葉、契約、約束。