全ての元は神の言葉を疑わせる事への挑戦状 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神学と言う人間の教え=誰かの解説から聖書を見ると、

ぶれて行く事が分かります。

例えば、世の中の教えは、無数に様々に、分裂していますが、

聖書に関する教えで、大まかにこの様な二つの解釈の

路線があると思います。

 

私は以前は1つしか無いと思っていました。

そして、それを聞いて来て、疑問に思いながらも、

疑わずにそうだと信じていました。

でも、聖書に戻り本当にそれって真実かどうか?

と言う事を、調べて行く、学んで行く、とことん調査する、

探って行くと、答えは常に神の言葉の中にある事を

発見出来るのです。

 

1 パウロは、トラーを破棄し、新しい教えを造り出し、

新しい別の契約を世界へ教え、律法なる縛り付けの

神の言葉=以前の言葉とは異なる事を教えた人。

聖書の教えは、最初の教えと最後の教えとは違っている。

イエシュアが、トラー=縛り付けの律法を、破棄するために、

地上に来たと言っている。別の教え、新しい契約を与えたと教えたとする派と、イエシュアの生き様がトラー丸ごと書かれているので、イエシュアに関してそこまで言わなくても、

今度は使徒2章以降、パウロがそこから新しい教えを造り出し、

今までの教えを塗り替えた事になっている教え。

別の時代が来たのだ〜。これこそ19世紀の神学が根拠。

 

その教えに照らし合わせてみれば、使徒パウロは、とても矛盾した人だと言う事になります。使徒として選ばれる人では全くなくなってしまうのです。

パウロの宣言からも、パウロはトラーを否定した生き方は

微塵もしないとした、ナジル人の誓願を”神殿”で行なっている事。ナジルの誓願を神殿で立てる=注*イエシュア昇天後も

70ADまで、使徒もパウロも変わらずに、コバーンを捧げ

全て同じ様にトラーの中身、レビ記の中身を

神殿で行なっていた事が聖書にはっきり書かれています。

使徒21章

ナジル人の誓願を立てるとは一体何ぞや?その意味は

何であるのか?を知らなければ、ならないのです。

パウロは100%トラーを教えている人だと言う誓いをして、

人々の疑い=トラーを否定する教えをしていると

言う事を、晴らした事がちゃんと聖書に書いてあるのです。

そして、パウロは”パリサイ派の中のパリサイ人”と自分の事を

呼んでいます。これが何を意味するのか分かれば、クリアーに

理解出来ます。使徒22章 23章6節

 

2 二つ目は、聖書に書いてある通りに、パウロは、

神の言葉、トラーを一点一画も変えない。

トラーは永遠不変。トラー以外の別の新しい契約は聖書に

書かれてはいない。

使徒=自分の考えではなく、神の言葉=トラーを神の意図通りに

伝える人。それが”使徒”と言う言葉の意味なのです。

永遠に変わらない神の言葉を伝える、トラーを世界へ

教えたパウロ。

 

この2つは全く違う土台、根拠から話していることは、

聖書を全く読んだ事が無い人でも、理解出来ると思います。

 

あの進化論の様に、人間が微生物から進化して、進化し続けると

言う教え。

始めから創造主が居られて、そのお方が世界の全てを造った

進化、変化はしないとする教え。

この二つは土場、土台が全く違います。

 

宇宙が果てなく、ビッグバンで出来た結果、今もなおさえ際無く

無限に広がり続けているという教えと、

聖書に書いてある通りに、全ては7日目に出来て、

この地の上にガラス様に固い囲い=ファーマメントで、上の水と下の分けたとある通り。

人は特別な存在として、唯一生物が住む事が出来る天体

ハ アレッツに造られたとする教え。

他は、皆”光”、季節を司る光として造られたとある教えと

全く違う事が分かります。

 

問題の元はクリアーです。

神の言葉への挑戦、神の言葉を疑わせ、違う教えを

付けたして神の言葉を塗り替える、そして神と言う唯一の

お方の権威に対しての冒涜なのです。

 

エデンの園の地を這う動物の作戦は、神の言葉の

永遠不変の真実性と、信憑性と、完全さを疑わせた事に

注目すれば分かります。

 

”神は本当にそう言ったの?”それは律法だよ〜終った終った。

鎧兜を脱がせて、人を危険にさらさせる。

子どもを害毒あるタバコの煙にさらす。

いや、匂いも味も色もない放射能の様に

気がつかない様に、気がつかない間に人を蝕んで行く。

 

それが別の福音=宗教の教え。喜び奪われて行く、

喜んで生きる事がなんなのか分からなくなる。

本当の自分が生きられないままもがく。

自分が消える。頑張りで神に

近づく別の路線を走らされてしまう。

安息から生きれなくなる。

神の言葉だけに留まらない時に、

様々な人間の教えが混じり、そして、神の言葉ではない

事を、気がつかない様にうまく巧みに入り組ませ、

宗教の教えと変身させて行く。

宗教の教えになってしまえば、人は縛られてしまうのです。

 

神の純粋な言葉=生ける水の中だけで生息する様に

人も創造物の全ても造られているから。

 

真実な自分の姿で、真実な神の言葉=真理=生ける水=神の中の

外側に、意識が飛び出ているから、渇く、もがく、本来の状態を求めて満たしてください〜 欠乏してます〜と言う自然な叫び

元の状態からずれた症状が出て来ると言う事が分かります。