こんな箇所を読んで勘違いしていた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ16:11 

わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
16:12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
 
マタイ16章の中を読んで行くと、様々な事柄が書かれています。
以前の私は、コンディション、条件反射、条件反応する様に、思考回路をコントロールされていました。
聖書に関して、ある様に反応する様に教えられて来たからです。
 
詰まり、イエシュアが地上に出現された後には、
全く以前とは違う教え、”トラー”を塗り替える
新しい教えを教えに来られたのだと言うこれまた、
人間創作の教え、”最大級の誤解”を刷り込まれ続けて、
教え込まれて来たからです。
 
旧約聖書と言う不適切な人造タイトルに加えて、
それらを”律法”などと言う、不適切極まりない誤訳で、その神の契約である中身の性質を誤解されてしまっている。
 
トラー=呪い、縛りの教え、律法、仮の教え、過ぎ行く教え、イエシュアが2000年前に来るまでの、テンポラリーな不完全な教え、一時的な教え。
 
この考えは、聖書の解釈の中に固く太い根の様に
張り込んでいます。こんな認識を土台にしたら、聖書なんて
見えて来ないのが何でなのか分かって来ます。
 
様々な人造神学、解説が有ります。
 
例えば、”律法”を与えたのは、人が守れ無い事を知っていて
神が与えたなど。
または、人がそれを生きる、守る事に失敗したから、別の契約を与えたなど。
 
ちょっと考えてみると分かるのです。
それでは、全てが人間の業が基準。
それでは、神の完了の業は一体何の意味があるのでしょう?
神の契約の性質をまるで無視しているのです。
神の契約は、神が一方的に100%責任を負っている事、
儀式を通して、表している内容がまるで見えてないと
言う事です。
 
神が与えたのは”律法”ではないのです。
神が人に与えたのは、”契約”です。
神と人が永遠に変わらない神の一方的な婚姻契約の愛=アハバで
保護されている事、神のデザインされた人間の生きる姿が
丸ごと書かれている、解説されているものが”トラー”なのです。
 
事の始まりは、そう言った人間の解釈から来る、
神の言葉に対する”誤解”なのです。
 
律法などと言う言葉で、トラーを翻訳してしまったから、
その後にずっと神の言葉=聖書=トラーは、何か、縛り付け、見張り、規則で人がどれだけそれを生きられないかを、示すために与えたなどと言う解説が出て来てしまうのです。
 
全然違う場所=神の言葉の内側の外側に飛び出て、神の目から見ない場所で、全ての事を語っているのです。
 
翻訳を曲げて書かれてしまっているほどに。
”後に来る影であって”または、ある翻訳ですと、
影に過ぎず〜の様に、余計な言葉を、翻訳聖書の中に
付け足していますから、読み手の受ける印象がまるで違って
来てしまうのです。
こんな箇所も全く誤解させてしまう誤訳です。
コロサイ2:17
 
この様な訳を読むと、神の言葉がまるで、過ぎ去る不完全な仮の教えが聖書の最初の箇所で、イエシュアが来られた後に本当の教えが到来したなどと思って、誤解しまうのです。
イエシュア=トラーである事が、見えてないからです。
イエシュア=肉体を取ってこられたトラー=文字で書かれたトラーはピッタリ一体です。
 
なぜなら、神=言葉だからです。
はじめに言葉ありき。詰まり創世記の初めにある
神、イコール言葉と言う意味、同じ事がヨハネの
1章の冒頭に書いてあるのです。
何も変わらない、一貫して初めから、終わりまで、
同じテーマ、同じ福音、同じ内容が聖書に書かれているのです。
言葉=神の実態です。
その神が変わったら変です。聖書の解説とズレてしまう。
辻褄が合わない。
神の言葉が途中から変わってしまうと勘違いしてしまう原因。
 
そして又は、トラーの箇所を、適当に部分取りすれば良いと
言う考え。どうして神の言葉=神御自身を人間が勝手に解体、
分解、つけたし、削除、変形させても良いと思うのか?
変えては駄目なのです。適当に。
 
この根本=神の言葉は永遠不変で聖書は1つ、同じ事が
書かれていると言う事実に戻らない限り、
真実を語っていても、途中で変化球の如く、トラーに当たる
路線=ヨレーから外れた路線に行ってしまうのです。
 
その思考回路でこのマタイ16章のイエシュアの話された”サドカイ”とか”パリサイ”と読めばイコール彼らの教え全てが、パン種=神の言葉とはズレていると読んでしまうのです。
プラス、トラーの教えをする人、イコール=サドカイ、パリサイのパン種の教えと勘違いしている。
聖書を知ると言う事は、イコールトラーの中身を知ると
言う事なのです。
 
1世紀の当時サドカイ派の教えは、人々に取ってとても
厳しい教えであった様です。
 
何が厳しいのかと言うと、神の言葉を生きると言う
その中身の解釈を180度ガチガチ、とても厳しい掟に持って行くと言う事です。
 
 
続く