今年4月10日に過ぎ越の祭りがやって来ます。
レビ記23章にある神の定めの祭りに関して、私は子どもの
頃から長い年月、聖書を読み、そしてイエシュアを
信じていたのに、数年前に初めて、神の定めの日がある事、
私が見聞きして慣れ親しんだ事とは、大分違うものであった
事を知ったのです。
レビ記23章に書かれている神の定めの日、招き日、
聖別された日が、今も有効な永遠不変の神の、
招きの日である事を初めて知ったのです。
英語習っているのに、アルファベット知りませんでしたと
言うのと同じ感じでした。基本が抜けていた。
聖書を読んでいるのに、私も招かれている呼び出し日
だったのに、終った教えだからと神の招きを人ごとの様に
思い続け、神の言葉、私は直接聖書から神に
語られているのにも係わらず、全然神の声に
気がつかないままでした。
逆パウロ現象をしていました。
考えると不思議です。人は、思考回路が別の場所=神の
言葉、声の中の外側に飛んでいると、今聖書から神に
語りかけられているのに、それさえも気がつけないんだと
言う事実があるからです。
自分の先入観が神の言葉、声をブロックしてしまうからです。
ふわふわ得体の知れないものではない。
聖書と言う確実に確かめられる永遠不変の神の言葉が
今自分の手元にあるのです。そこから全て汲み出せる。
事実を確認出来る。家に居乍ら読める。
そして神の言葉なのに、分からないまま、
神の言われる事とは、反する教えを唱えていた。
”昔の古い教えは律法主義、現代は違います。
昔の呪縛の教えですから、今はそんな事しません。
別の事をします。”と思っていた、言っていた、やっていた。
神の言われる事を聞かない、信じない、やらないで
神の言われる事とは違う事をする。
それは即座にぬるいもの=混ぜ物の教えと言うものに
なってしまい、神の言われる事が、分からなくなって
しまっていた。
それって完全に、この世の教えのプロパガンダであった事
今はクリアーに見えます。
何故でしょう?
神の言葉、神の言われる事が、真実だから。
永遠不変だからです。神の言葉とマッチしない教えは
真実ではないからです。この世の支配者の考え、言う通りを
ただ信じて、彼らの言う事が神の権威、真実と同等だと
思わされていただけ。この世の教え=彼らの言う事が、
私の神になっていただけ。
私達が神の言う通りを生きたら、生返ってしまう事を
知っている存在がいるのです。それほど単純、だから
やらない。何かこんな薬効き目ないように思うから?
シンプル過ぎて、効果なさそうと思うから?
取入れない、飲まない。
それほど神の言葉はシンプル。命の木から食べなさい。
本当シンプルな仰せです。大した事無い様に思う。
でも神の言葉の真実を発見して、神の言われる通りを
生きてしまうと、神と特別な出会いを体験出来る。
だから、神の言われる事とは違う教えや声は、
削除すれば良いと言う、いとも簡単な事だったわけです。
神の言う通りだけを聞いて生きると言う事に、
100%完全に切り替えれば良いのです。安全、守られる。
喜びガードされる。
見分けを付ける。神の言われる事なのか、神が言われている
事とは違う事なのか。
人間の造り出した教えや、祭りの日なら、そうだと
気がついて、神の定めの日とは違うからと認識する。
神のものとは、一線を敷いた別のカテゴリー、
別の性質のものだと認める。神の定めの日ではないと
仕分けすれば良いのです。
人の造り出したものとして、取り扱えば良い。
神の仰せは神の言われる通りに信じて、生きれば良い、
やれば良い。
それが出エジプトです。
以前の主人の声に聞き入らない。
イスラエルの神に属さない以前のエジプトの
慣し、価値観、風習を生き続けない。
奴隷から購われて、イスラエルの神の子らとされた事を
知った人は、今度は違和感あっても、本物の神の声、
言葉だけを聞く練習をしなくてはならないのです。
それが”荒野”での40年なのです。
死んだ、偽の自分の生き方から、
神の似姿の、購われた本当の自分に切り替えて
生きる訓練。
神の声だけを、聞き続ける訓練。
以前の脳回路の枝が相当太いから、40年必要だったのですね。
40日40夜、40年、奴隷での400年。それでも二心が消えない
人は全て約束の地に入れずに死に絶えたと書いてあります。
この数字には意味があります。
神の訓練の時はピッタリ合っています。
神の訓練は神の暦の中でプランされているのです。
だから、神の暦、神の定めの時の中で生きる事が
人間の本来のデザインだと気がつけば良いのです。
続く