結論から書きますと、過ぎ越の最初の日が何曜日なのか、
主が木にかけられた時がいつなのか?が全く不確かなので、
いつ昇天されたのかも不確か。
3日3晩は私達がカウントする様な72時間ではないからです。
”その時がいつか“不明なのに、始めから金曜日の日没、
そして、日曜日に復活したと人の解説で断定してしまって
います。本当は、”いつか分からない”と言う事が事実です。
そして、復活した”曜日”がいつでも、それは重要な意味は
無いと言う事です。
イエスさまの”過ぎ越”の年、あのシャバット=安息日と
書かれている箇所は、その週の通常のシャバット=金曜日
の日没の事なのか、”祭りの時”の”シャバット”=何曜日に
係わらず”ハギム”=祭りの最初の”シャバット”なのか
不確かだと言う事です。
詰まり、祭りの初めが、その年々で、
一週間の中のどの日になると言う事なのです。
イエスさまが2日後に過ぎ越があるから、過ぎ越の
晩餐が出来る場所を探してと言われました。
当時、どの日に“過ぎ越の晩餐”をしたのか
それぞれの派で異なるのです。
13日のパン種除去掃除の夕暮れにしたのか
14日にしたのか、15日過ぎ越の晩餐で神殿で
屠られた動物を食したのか。
最後の晩餐の中には、神殿で屠られたコバーンの
羊を食している事は書かれていません。
あの晩餐のメインポイントは、”種無しパン”と
”購いの杯のぶどう酒”だからです。
今でもある人は2回過ぎ越の晩餐をしたり、ある人達は
1回するだけです。それぞれにそれぞれが違うからです。
レビ記23章に書いてある様に、”祭り”はシャバットから
始まります。
”ハギム=祭り”、神の定めの時は、何曜日であろうとも
それを”シャバット”=安息日と定めてスタートする。
月曜日であろうと、火曜日であろうと、何曜日で
あろうと、それが”安息日”=シャバットとして
スタートするからです。
そして、祭りの真ん中にまた”金曜日”の日没が来るなら、
その日は、通常のシャバットと同じシャバットとして
止まり、祝う。シャバットが始まる前に、準備をしして
シャバットが来たら完全に止まる。
そして、祭りの最後の日も曜日に係らず、シャバットとして
閉じるのです。
ですから、過ぎ越とそれに続く種無しパンの週も
多くて、3回はシャバットを迎える事になるのです。
イエスさまの昇天された年の”過ぎ越”スタートの
日は、どの曜日でもシャバットになるから
丁度うまい具合に、普通の週の金曜日の日没に
始まる”シャバット”と、祭りが始まる日の
シャバットが偶然重なったと言う証拠、
記述は聖書のどこにも無いのです。
そして、”祭りの準備”があるから日没前に、
遺体を引き取らせて欲しいと言う下りが、
どの”シャバット”なのか分からないと言う事なのです。
だから、日、月、火、水、木、金、土
どの日が”ハギム”=祭り=過ぎ越の最初の日にあたっても、
それを、安息日=としてシャバットと呼ぶのです。
祭りの最初は”シャバット”
何曜日であれど、安息日とするからです。
だから、2000年前のイエスさまが居られたあの年の
”過ぎ越”の祭りは何曜日からスタートしたのか
完全に不明なのです。聖書に記載されていないからです。
しかも、一日の始まりは、日没以降ですから
それも暦の数え方が違います。
そして、ユダや暦だと、午前午後どのひと時でも
一日と数えてしまうので、西洋暦で育った
私達には、これまた理解不明な点であるのです。
事実だけを掴んで、捉えて聖書を読む。
事実は=主の復活した時がいつなのかは、
全く不明、分からないと言う事。
主の復活したあの年の”過ぎ越”が何曜日から
スタートしたのかは完全に不明。
だから、復活した時間や、日を特定する事も
不可能なのです。
週の最初の日=たとえ土曜日の日没から日曜日の日没に
墓が空でも、いつ蘇られたのか、誰も分からない。
聖書の中の、三日三晩の数え方も、私達が考える
三日三晩=72時間とは、全く違うから、完全に不明な
事柄なのです。
次にイエスさまが処刑された、あの年の”過ぎ越”の曜日の
可能性をUpします。
続く