イエシュアがいつ昇天されたのかは不確かである事実が聖書に書いてある | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達は、始めからイエスさまが昇天した日が日曜日

であると、教えられて来ていると思います。

 

でも聖書に基づいて、一体それは本当に

事実なのでしょうか?

 

本当にイエスさまが日曜日に昇天した事実が聖書に

記載されているのでしょうか?

 

いずれにせよ、主が何曜日に昇天しようとも,

別の曜日に昇天されていようとも、

それは、どちらでも良い、全く関係無い事なのです。

 

昇天された曜日で、神の言葉が変更になる事など

絶対に無いからです。

 

そして、イエスさまが何曜日に昇天されようと、

神の言葉は永遠不変、神の契約も

永遠不変、教えに神の言葉に変化は何も無い事が

聖書には書いてあります。

 

問題なのは、主が昇天された後、神の言葉、契約が

塗り替えられ、変えられ新しい教え、新しい福音、

新しい契約が出現したとする人間の教えなのです。

 

過ぎ越、シャブオート 仮庵に代表する神の定めの時は、

”シャバット”=金曜日の日没以外は、曜日ではなく、

ユダヤ暦の第何の月の1日とか15日とか、

その”日”が大事なのです。

その祭り=ハギムが始まる日は必ず丁度”満月”に、

なるのです。

 

そして、毎年ユダヤ暦の祭りの日は変わらないけれど、

毎年その曜日が変わって行くのです。

西洋歴で見ると、その日は変わりますが、

ユダヤ暦で見ると、全く同じ日に毎年”祭り”祝いの時

が来ます。

 

私自身も、ヘブライの世界、ヘブライ人 イエシュアを信じ

ながら、イエスさまと同じ足跡、イエスさまの言葉の意味を

生きる事を、体験する機会がありませんでした。

 

聖書に書いてある永遠不変なのに、

イエスさまが代々に渡りガードせよと語っている、

教えて下さっている、その神の呼び出している日、

モアデイム=定めの日=祝いを、8年前まで一度も、

体験する事なく来ました。聖書に書いてあるのに、

知らなかったからです。

 

多くの人に取っても、聖書に書いてある永遠不変の主の

呼び出して下さった特別な”会見”の日であるのに、

それらが全部イエスさまが昇天された後は終った

教えだと教えられているため、その麗しい、喜びに満ちた

”主と特別な形で相見える定めの時”の意味、内容も

語られる事も、ましてそれを追体験で一年の神の暦の中で、

実際のその婚姻契約の印を生きる体験もないまま、

それって何?て言う位、馴染みの無い神の言葉、

教えの世界ではないかと思います。

 

私は、それを実際にやってみて、その神の暦の、

神の定めた特別の日の意味を知って行きました。

今年も10月16日に来る、仮庵の事を今からずっと

思いめぐらし、友だちと、家族と色々な事を

語り合っている所です。

 

神の定めの招集日の中に、神のレッスンプラン

個人に対する、コミュニテイの対する、国全体に

対する、全世界に対する、主の教えのプランが

あるのです。

 

これは、また別のトピックなので、書きませんが

簡単に言うと、自分が”主の似姿”の人とされている

その事実、領域を再所有する上で、阻んでいる

”死骸、残骸”死んだ自分の中に根付く死んだ生き方を

一つ一つ削ぎ落とすためのプランを主が

用意して下さっているのです。

 

でも、その神のレッスンプラン、スケジュール

暦の中に生きる事を無視するなら、主が何を教え

何をされようとしているのか、キャッチしないまま

素通りして行くと言う事なのです。

 

そして、神の定めの時の全ての中に、

”福音の全て”を網羅する教え、レッスンプランが

入っているのです。

神のデザイン=神の暦=神の定めの時とは

その様な意味で書かれているのです。

 

それを体験生きる喜びに欠損しながら

今迄来た事にやっと気がついている所です。

 

さて、その祝いが聖書に書かれていながら、実際には

余り聞いた事の無い内容で、何を書いているのか

意味不明だと思いますので、図にして見ましたので

次の記事に載せたいと思います。

 

イエスさまが地上に居られた訳2000年前のあの年、

ユダヤ暦の第一の月=ニサンの14日

その日までに、家の中からパン種を取り除く大掃除も

しておく。

 

イエスさまの屠られたあの”過ぎ越”なるものが、あの日あの時、

あの年“何曜日”だったか、全く分からないと言う事実から

読まないとクリアーにならない事実、箇所なのです。

 

あの年の“過ぎ越”のスタートの曜日が分からないのに、

主がいつ昇天されたのか分からないと言う事なのです。

 

続く