以前にも書きましたが、もう一度書いてみます。
”シナゴーグ”=会堂について。
ヘブライ語では、ベイト カネッセ=会堂と言うものが
造られた背景があります。
イスラエルには、神の言葉通りに、エルサレムにしか
神殿を建ててはならなかったのです。
しかも、神が指定したそっくりそのままで細部に渡って
神の指示通りのものを再現しなくてはならないのです。
それは、天の現実が地にそっくりそのまま反映されるため。
肉眼で見えない、天の神の家を地上で私達が
見る事が出来るためだからです。
影と言われるのは、目で見えない天の現実そっくり
そのまま同じ実態が地に現れ出ると言う意味だからです。
そして、神殿=神の家は一つだからです。
神殿と言うと何だか堅苦しく感じますが、
ヘブライ語では”ザ 家”です。我が家〜!
ハ バイト=神の家です。
一つの神、一つの家、一つの国民、一つの国。
イスラエルの神の子らが住まう姿の現れが
神の家なのです。
この神殿=神のお家を中心にエルサレムの人々は
生活していたのです。
この中で遊び、友人に会い、祈り合い、談笑しあい、
トラーの言葉を語り合い、生活の全てはこの
”ハ バイト”中心。楽しい場所だったのです。
そして、私達も、イスラエルに住んでいなくとも、
イスラエルの神の同じ契約に加えられた人なら
同じイスラエルと同等の”相続”があり、同じ神の
言葉=契約の中に生きる様にされているのです。
イスラエルの地方に住んでいる人達も、エルサレムの
神殿の様に、いつでも好きな時に、皆が集ったり、
交わったり、祈ったり、憩ったりする場所が欲しいと、
ラビ達が考え出したもの、それが”会堂”なるものなのです。
そして、”会堂”が、造り出されたのは、バビロン捕囚の後、
聖書の三分の二の終わりに近い時代なのです。
それまでは、シナゴーグ=会堂なるものなどは、
存在すらしなかったのです。
聖書の時代の最初の部分には”会堂”なるものは、
無かった。
会堂とは、”イスラエル人の造り出した伝統である
アイディア”それが会堂であり、集まりなのです。
しかもヘブライ人が土曜日にどこかの会堂に集るという
事は、聖書にある神の仰せだからそうしているのでは
ありません。
しかも、これが良いとか悪い事と言うものでもないのです。
イエスさまも会堂で、イザヤ書を朗読をしましたね。
聖書の仰せだからではない。皆が”ベイト カネッセ”
寄り合いに土曜日集るのが彼らの文化、生活の中での、
習慣、伝統、風習だからしていたのです。
そして、ハヌカの祝いも”聖書の仰せ" 神の定めの時
モアデイムではないけれど、ユダヤ民族の祭りだから、
イエスさまもイスラエルの皆と同じ様に、その祭りを
お祝いされていたのです。
そう考えると、はっきり見えて来ます。
神の仰せか、文化、伝統、仕来りなのか。
今は、イスラエルでは、イスラエル独自の祭りがあります。
ハヌカやプリムなどその代表的なものです。
聖書に書かれているイスラエルの神の仰せと、
イスラエルの国の文化や人が造り出した習慣を
区別して認識すると、何が聖書の中の神の仰せなのか、
そして何が文化の中から出現した教え、祝いなのか、
またその活動や行動の意味が見えて来ます。
そして、土曜日に必ず会堂に行かなければ
ならないものでもないのです。
主の仰せではないから。
行っても良いし、行かなくても良い。
人間の造り出した伝統、でも神の仰せではない。
今でもイスラエルでは殆どの人は、家で家族、仲間と
土曜日にゆっくり過ごす事が普通です。
ひっかかるポイントは、家族中心の時を差し置いて、
何か別な活動で家族がバラバラになる方が
問題だと言う事なのです。
プラス“シャバット”は、活動日ではなくて、全く逆の
様々な”メラハー”=自分の努力の手の業を止める日
なのです。
あなたの住まいにおいてと主が言われた意味が
はっきり分かります。
全て、本末転倒になる事、家族が損なわれる事から
私達が完全に守られるためだと分かります。
続く