シャバット 文字通り とまる やめる。
静まる、落ち着く、ゆったりする、ほっとする。
”創造”の一番初めの始め、いや”永遠”の中、永遠に思いを
馳せる。
神が時を造られる前に、私達は永遠の中に神の中に
造られていた。
私達の創造主たる主の御前に皆で出る。
地上=足台 主の御座=シャマイム 天の御座の前に
今既に存在している現実を、皆で喜び祝う日です。
この世界の”創造”の時に、主が6日までで全ての業を終えて、
手を止めて、7日目に憩ったと書いてあります。
神は人間の様に肉体が無い、疲れたり、疲労したり
休む必要はないのに、”肉体的な憩い”を表す
”ナフャーシュ“=憩い、安息などと訳されている
そのヘブライ語を使って表されています。
この箇所、以前は気がつきませんでしたが、
深い奥義がたくさん詰まっている事が見えて来ます。
”主” 全宇宙、全世界の王の王、主の主であるお方、
創造主である。そして私達被造物。
その様な、距離のある関係ではない、人間と同じレベルに
”入って下さっている” あの黙示録にある、主が戸の外で
戸を叩くと言う、あの箇所とも繋がって行きます。
初めの初めから書いてある。
肉体を取って来られたイエスさまが居られる事!
ちゃんと書いてある。永遠から存在している全て。
”契約”の中に共に入っている関係。永遠の堅い堅い破られない
”契り”の中に共に居て下さる主。
なんか、お父さん、お母さんが子どもの所に来て、
一緒に顔と顔を合わせて座る、憩う、自分の存在を
心底喜んで、楽しんでいてくれ居る様子。
”安息” ナファーシュに入るとは、天国地獄行きの話ではない。
”主との関係、共に相見える、主のデザイン通りの関係に
入るのか、入らないのか”と言う事が書いてある事が
分かるのです。
全宇宙の創造主であるお方が、”人間”=被造物と言う
距離のある関係ではなくて、特殊な特別な親しい関係に、
入っている=ナファーシュ=憩った。
顔と顔を向合って、究極の親しさ=永遠の関係に入って
いる事が、この言葉から読み取る事が出来るのです。
シャバットの奥義の側面はたくさんあります。
そして、深~~~~~い教え。福音の根幹、中心が
その中に詰まっています。
シャバットとはどう言う事かと言うと、人はどう言う状態で
永遠に生きる様に造られたのか?と言う原点に戻る事と
言えるでしょう。
6日目で完了! 永遠に完了!何も付け足すものは無い。
人間の努力も何も付け足す必要がない。いや付け足しても
無意味なのです。100%主の用意して下さった
その中だけで、それだけで十分!足りている。
主の与えて下さった=完了の業=その現実の中から、
人は生きる様に造られているから。
原点に、気がつく。思い出す。忘れていたら修正する。
神のデザインのオリジナル、根幹、原点に戻る事を
繰り返し繰り返しするのです。
日々の中で、そして一週間に一度のこの”シャバット”の時に
主が呼び出して下さったこの日に。
主がそう言われたからそうする。
そして、シャバットを元に一年に渡るモアデイムで。
”忘れないために” ”まことの命を損なわれないために”
続く