シナイ山に下った霊=使徒2のシャブオートの出来事。
繋がっているのです。
イスラエルにはじめて与えられた同じ契約が
今度は世界中の言語を語る、世界の国民へ開かれている
事実、トラー=婚姻契約が運ばれる皮切りの出来事だからです。
ヘブライ人なら完全に読み取れるこの出来事、事件の意味。
主は初めから イマニュエル=主ともに居ましは不変。
人は、神から切り離されて生きる様に造られては
居ないから。
出エジプト=瞬時 新しくされている事実を知る。
受け取る。でも奴隷だったので、その脳回路は
以前”切り離された死んだ人のまま”そのまま出て来た。
荒野=訓練 成長
”神の人、神の似姿にされている事実”
全く知らなかった、本当の自分に出会う旅。
婚姻契約の中に生きる事を、訓練される。
しかし、多くの人は、主の言われる事を信じずに、
疑いだらけで、脳回路の枝が切り替わらず、頭脳が
頑以前の”奴隷”の時と同じままで死に絶えた。
約束の地=主の似姿の人を生きる訓練をされ人=成人が入る。
何故?主の中=エデンで、主の与えた全領域、全ての祝福、
全てを喜び楽しめる脳回路の枝を、主の似姿の人の頭脳に
生やし続けたから体験できる。味わえる
主の命 主の与えて下さる関係を100%フルに享受出来る!
楽しみ喜べる!
ヨハネの語っている事は、神殿での教えと、シャバット
モアデイムで体験した、主の命の教えだと分かります。
それは、天の現実=地上でのレプリカを通して体験した
目に見えないけれど、同じ主の命、世界、天の現実。
五感を通して、見て、触れて、触って、味わって 聞いて
匂いをかいで。。。これ シャバット モアデイム
そして神殿でのコバーンの儀式、一連の儀式での教えを
通して彼らは、体験味わっていたのですよ。
だから目で見て、手触れてと書かれている。
その儀式をする人は皆知っているでしょう。何が行なわれて
いるのかを。
神殿の儀式の中で、シャバット モアデイムの中で
天の国の現実=イエシュア自身を、人は体験する様に
神がそれらをデザインしたからです。
ヨハネの手紙1
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、
目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、
いのちの言について――
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちを
わたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに
告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共に
いましたが、今やわたしたちに現れたものである――
”新しい人”=主の似姿の人である自分を発見したら
次に知らなくては繋がらない事実。
それは、 ”神の言葉はひとつ”と主が言われる。
分断された別の教え、契約が2つ存在すると言うのは
聖書の事実とは異なる人の造り出した教え=肉の目から見た
教え。
ひとつの神、ひとつの言葉、ひとつの契約、ひとつの神の国
ひとつの家族。それが主の言われている事。
聖書にはそう書かれていること翻訳聖書を読んでも
はっきりと確認出来ます。
永遠不変新しくされている=元々の自分の姿は
どこに書かれているの?どこで知る事が出来るのか?
”トラー”の中に描かれている=イエスさまの生きられた姿
トラー=神の言葉=イエスキリスト=主の似姿の人の姿
だからです。
皆トラーのシャバットとモアデイム中心からの
教えなのです。
主に与えられた本来の姿、本当の命を生きられる領域、
世界へ 自由自在に、漕ぎ出す漕ぎ出す漕ぎ出す
羽ばたく羽ばたける。喜び溢れ出る。
喜びの中に生きる=これが本当はノーマルな日常なのです。
周りにどんな事が起ころうとも。主の中=エデンから
飛び出さないから。
続く