主の教えは五感で体感、体験 学習する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

初穂を数える49日=7回のシャバット 7週間
7の時=シャブオートに向けて、”完了”の姿を教える日々です。
”初穂”=主の中に主の似姿によみがえった人達”になっている
と言う事実を教えているのです。

これを、奴隷脱出 出エジプト体験と照らし合わせると
はっきり分かります。

その前に、人は主の似姿に造られているのです。
主の息を吹き入れられて、主の命を吹き入れられて
人は生きるものとされたとある通りです。

そして、聖書には魂とか体と分断されて書かれていません。
”魂”と翻訳されている箇所=ネフィッシュ=丸ごとの存在。
体も霊も一体である事に着眼するのです。
切り離して考えない。
体で体験する事=五感を通して体験する事。
自分の全存在で吸収している。密着しているのです。
切り離して考えるから変な教えが出て来るのです。

体=悪い、汚れている 霊=崇高 これってギリシャ哲学
西洋人の教え。反聖書思索。
主に造られた全ては、聖なるもの=主の意図通り
主の目的に沿って造られている=麗しいものと
書かれています。

でもそれが、別の目が開かれて、スイッチオフ
別の領域に飛び出してしまった。

でも”主の似姿”の人は永遠から用意され取戻されていると
原典聖書には書かれています。
あの2000年前、イエスさまが昇天された後、
初めて”神の霊”が人の内に下ったと言うのも事実ではない。

ヘブライ語の聖書の中では、顕著に“主が人の中”に
住まわれている事が書かれ居ます。
翻訳読んでも読み取れると思います。

主はどんな形でどの時に現れようと自由自在。
その出来事にはある意味があるだけで、その時主の霊が
初めて下ったのではない。初めから私達は”主の中”に
造られて、主の霊=息吹=ルアフを吹き入れれて
生まれて来た存在なのです。

主は初めから”人の間”人の中に住まわれている事、
地上で肉眼で見えるあの”神殿”で主の臨在を
見せながら五感を通して教えていた事からも分かります。

初めの初めから主は人と向合い関わる関係にある事
聖書読めば書かれています。
主の霊が内側に宿る様に造られているのに、
そうではないとする教え。
それは聖書に書かれている事とは、違う教えを生み出す。

つまり、”特別な人だけ” ”新しい別種の霊が降りて来た”
など。それらは誤解して読み取る箇所ですね。
ヘブライ人が読んだらちゃんと分かるでしょう。
いや翻訳読んでも分かります。主は分け隔てなく
どの時代にも同じ様に人の中に住まわれている。

霊を入れられて生きる存在なのに、何千年もの間
人のニーズを放置する神=それは宗教の教えの神。
イスラエルの神は永遠から永遠に内側に共に
居て下さる、インマニュエルの神だからです。

続く