今日は”種無しパン”を食べる週=金曜日の夕暮れで
終わりです。
”初穂を数える” 49日は、同時平行進行でシャブオートまで
日々続きます。
皆が”農業”はしていない、大麦を栽培していない。
しかも神殿が今は無いプラス、エルサレムに住んでいま
せんから、都上りでそれを出来ない。
では一体、今それらが無いこの7週、何をするのか?です。
”初穂”=主の復活の命に生まれ変わった事、
主の前で日々宣言する。思いめぐらす。
これも強化週間です。脳回路の枝がどんどん出来て来る。
”あなたは誰か?”主の似姿の人。そしてそれを生きる事が
出来る様にされている事、そしてそれを生きる。
ずっとそれをして行くのです。
教えの意図、中心は同じ。
あなたは誰か?を、”生まれ変わっている主の似姿の人の
脳回路の枝”それをどんどん生やすため。
あなたは不完全な罪人ですなんて、別の電波、音波、声に
繋がっては、死別の脳回路の枝生やしてしまいます。
命を生み出さない教え。
主の言われる事、”言葉”だけに全身全霊=自分の全存在
ネフィッシュを傾けて、浸る=バプテゾー=主とひとつに
繋がる。主の命が流れて来る。
“オメル”初穂を数える7週間は 過ぎ越の2日目から同時
進行。何をしているのかと言うと、初穂の束を重ねて
東西南北に振りかざして、主の復活を祝う、祝福するのです。
よみがえられた主、そして主と共に死んだ命から復活の
命に移されている私達の現実を祝うのです。
こんな祈りをします。
「祝福あれ、私たちの神であられる主、
全宇宙の王の王 主の主宇宙 全てを造られ、治められている
お方へ祝福あれ。
主の御言葉によって私たちを聖別して下さり、
オメルを数えるように私達に仰せられたお方。
子供達に、この教えの意味を日々語り聞かせて、
49日 シャブオート シナイ山で天の現実が
舞い降りた、、そしてエルサレムで同じ事が再現された
そのシャブオートの日まで続きます。
我が家では、毎晩団らんでの語り合いの後、
カレンダーに印を入れさせています。
毎日毎日 夕飯時に、出エジプトの脱出の箇所を
音声聖書を流して聞いたあと色々と質問話し合い
楽しいひと時を持っています。
主の仰せは”次世代へ”主のされた救い、購い、そして
主の似姿にされている命を伝える事なのです。
シャバットに関してノートを造ったのですが、余りにも
奥が深く、内容が濃くてどこからどう端折ってまとめたら
良いか分からない位。
でも感動します。トラーの中に描かれている”主の福音”の
真実のなんと奥深く、麗しく、人を生返らせ、主と人の
本当の関係の姿が描かれているのか。
美しい音楽や、絵画や麗しいものに触れた時、
思わず身をひそめて、その感動を止まって味わう!
どこからどう捉えて消化しよう。余りにも素晴らしすぎる。
そんな感動で一杯になってしまうのです。
これを、どう説明したら良いのか。たくさんの箇所を
ひとつひとつ説明しないと、解説出来ない。
やはり、トラーに書かれている事が分かると、
新しい年代の箇所で書かれている事が、繋がっており、
同じ内容、トラーの中身を書いている、奥深い内容が、
書かれ居る事が分って来る。
シャバットは、毎回 購い出された、奴隷であった事
そこから、救い出された事を思い出す。
私達は、奴隷だった。どんな形であろうと、まことの主人を
知らないまま、本当の自分を知らないまま=主の似姿に
されている事に気がつかないまま、そして本当の主人と繋がれ
顔と顔を相見えて結ぶ主のデザインされた本来の
麗しい関係に入れないまま、放浪。
命から離れた状態に在ったのはどんな人も同じです。
私達は人間の教えに繋がり”ずれた場所”から主と繋がると
同じ様に奴隷のままで居ると言う事。
”同じ火”なのに、ひとつは滅ぼされる
もうひとつは”火”の中にいても、滅ぼされない。
主と顔と顔をまみえて会ったモーセと、
顔と顔を見たら滅びてしまう状態の人達。
恐れが遮って、主との本当の関係を結べない状態=奴隷。
おそれ=隔ての壁=主と本当の関係に入ってない
内側の外側の意識。
それは、人の教えの奴隷となっているからです。
だから、恐れから、これこれしてない、不十分だ
何か足りてないだから手に入れなければと言う意識では
”主の御顔に相見える”親しい関係に入れないと
言う事が本当に分かるのです。それが書かれているから。
シャバットは、止まる日。やめる日。
何を止めるのか?やめるのか?
”エジプトで培って来た全ての思考回路、価値観、
肉の目から眺める全ての事”に気がついてやめる。
ハメッツ=パン種が潜んでいる=死んだ人の中
その記憶の中にある、未だ本当の自分に影響与え続けている=
この世の価値観で造り出した脳回路の枝の中に潜むそれに
気がついて、それをとめる やめる。
それは本当の自分ではないから。
これは、主の復活の命と全く繋がっているのです。
主が”過ぎ越”の時に木にかけられ、処刑され復活された
事には意味があるのです。他の日ではない、”過ぎ越”に
それが在った事に着眼するのです。
Shabbat Shalom