もうすぐ過ぎ越 シャバットと過ぎ越の意味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

家に辿り着きやっと日常生活が戻って来ました。
毎日が主を体験する機会を与えられている。

人生の日々の歩みの中、どんな状況の中にあっても
その歩みの中で、”主を体験する”
悲しい事も、辛い事も、困難な事も 嬉しい時も、何事も
無い時も、どんなみちすがらでも、主を体験、主の真実
主の御顔に出会う様に、主がそれぞれに備えて
下さっている。

主の御旨通りの生き様をあらかじめ用意されていると
ある通り。

あと10日余りで、過ぎ越し、それに続く”種無しパンを
食べる一週間”。
その後は、穂を数える=新しい人=主の似姿の人が成長する
事を教える49日。
7回のシャバット=完成の後に、シャブオートが来る。
シャブオート=五旬節50日目だからですねギリシャ語では。
その日はなんですか?トラーをシナイ山で与えられた
喜び祝う日なのです。

だからシャブオートで、主が臨まれて全世界へ、この
トラーが運ばれる皮切りとなった事 その意味付けが
見えて来るのです。

これは、イスラエルの神、全世界の王の王主の主、
世界、宇宙、全てを造られた創造主のデザインされた”暦”。

シャバットは金曜日の日没。
主が6日間で全てを終らせた、完成された。
付け足すものなにもない状態で、手を止められた。

以前主の創造の業は、永遠の中に完了されている事を
知る事がなかった時、常に西洋哲学思考による
歴史線上に物事を考えていた。

”イエスさまが来るまで、救いも 購いも、そして人の中に
霊=神が住まわれる事もなかったのだ”と勘違いしていた。

でも、それは主の真実、真理ではないと言う事。

永遠から見る。円、球から眺めればどこを取っても
同じ事が分かる。

そして、神の仰せは宗教ではない。
何々教と言うものは、全て人間の教えにより造られたものだと
言う事。
ユダヤ教とて、人造の教え。
イズムの世界は、神の言葉とはズレているから。

純粋な神の言葉により人は生きる様に造られている。
人の混ぜ物の教え=文字は殺しでは 生きられないから。

シャバットは、永遠に変わらない。
イエスさまが来られた後、別種の暦が出現し、別種類の
シャバットが出て来たのではない。

シャバット=止まる=活動日ではないから。
礼拝とは、アボダー=生きることそのもの。
命のサイクル。主の暦通りを生きる。主の意図通り
神の似姿に造られた人間、主のデザイン通りをフルに
生きられる。これが一番ヌアーフ=ぴったり心地よいから。

頑張ってやる、到達するではなくて、主の似姿に
されているその実態を今生きれる!
あなたはまだ不完全だから、それを生きられないよ~
と言うのは、誰のささやきか、あのエデンの蛇の騙しを
読めばはっきり気がつきます。

何曜日にイエスさまが昇天されたのか、実は不明なのです。
そして、気がついた事があります。
一週間に一度のシャバット=金曜日の日没から、
土曜日の日没。
そして、それを中心に、暦がある。
神の暦は、この世界が造った暦とは違うのです。

そして、モアデイムは神の暦の日、曜日ではなく
過ぎ越で言えば、ニサンの月の15日と決まっています。
毎年、その曜日は違います。
そして、イエスさまがこの”過ぎ越”の時に十字架に
かかった事は意味があるのです。
曜日ではなく、暦のその日に意味がある。
十字架にかかった日も昇天した日も。

そして、イエスさまが昇天された後も、パウロや弟子、
ヘブライ人そして現在でも、シャバットは不変なのです。
聖書を読んで見て考えてみるのです。
神の言われる事実だけに基づいて考える。
そして、調べて見れば分かります。

神の言葉を変えた、曲げた 別のものを造り出したのは
皆人間の業である事が分かる。神はなにひとつ変えていない。

ユダヤ人が西洋宗教の唱える”ジーザス”が、救い主だと
認識したくない理由のひとつには、西洋人が”神の言葉を
改ざん、神の言葉を捨てたと言う行為に大きな原因が
ある事が分かります。

契約を捨てて、別の福音を生きるのだと強要された、同化を
促されて抵抗して来た歴史を学べばなるほど、神に契約を
捨てるなかれと命じられている人達が、それを出来る分けない
しようとするしたいと願う訳が無い事が分かります。

人が主に出会う事を阻んでいるのは、実は、人間の教えで
ある事が分かって来ます。

人は、混ぜ物の教えに抵抗感がある。
どこかで、変だと気がつく。何故?ズレているから 
真実ではないからそして、その中には気がつかない縛り
付けがあるから。

人の教えに乗っ取り様々な事をしなくては認められない
神に逆らっている 神をないがしろにしていると言う
意識を植え込まれてしまう。
知らない間に宗教の罠に縛られていて、宗教をやっている
事に気がつかないままそれが本当だと思っていた自分。

主の真理は私達に本当の自由=主の似姿で生きる全ての中に
解放して下さるのに、人間の教え=文字は人を
殺してしまうのです。

Shabbat Shalom