神の言葉は永遠に不変 真実 何も変わらない マタイ5章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ 5:16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、
人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいます
あなたがたの父をあがめるようにしなさい。

神の御名を高く掲げる=主の実態を丸ごと生きる事が
書かれています。
そして、人がそれを見て、主の存在、主がどんなお方である
かに気がつくのでしょう。
渇いている世が求めているその光=主の光に引き寄せられて
来るために。

17 わたしがトラーや預言者
<これはタナック=トラー= 預言者=ナビーム
諸書=ケトヴィーム=聖書の最初の三分の2の事を
指して言っているのです。>
を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。


これ、イエスさまの御口から語られています。
イエスさまは何のために来たと言っているのでしょうか?
トラー 預言書 諸書 人の教えで”旧約”と呼ばれている
まさにそれを、破棄するためではない。
破棄=誤解して曲解して解釈しているそれを訂正するため。
成就=神の言葉の実態を正しく教えるために来たと
書いてあるのです。

破棄、成就とは、イエスさまが来られた当時の
”宗教慣用句”です。
破棄=トラーを正しく理解していない
成就=トラーを正しく理解、解釈するです。

そしてイエスさまは、文字で書かれたトラーが肉体となって
現れた現人神。
成就=完成の姿=神の似姿、神のデザインのオリジナルの人の
姿を生きて見せて下さったのでしょう。
だからトラーに書かれた神のデザインした人間の本来の
姿が全部終りと言う人間の付け足しの
教えは、只の人の言い分であり、神が言われる事とは
異なる事、書いてある通りに読めば分かります。

イエスさまは何と言っているのですか?
”トラー、預言書 諸書 つまり終ったと西洋宗教の世界で
言われている、聖書の最初の三分の2は、一点一画も決して
廃らないと言われているのです。強調されています。

主の言われる事を否定せず、そのまま受け取らなければならない。
欠け目無くそのまま読んでみたら神の言われる
真実、真実が分かります。翻訳でも。

私達は、”神の言葉 神の性質 神の人への対応が時代ごとに
変わったのだ”と言う人間の教えを刷り込まれて来ているため
目の前に書いてあってもそう読み取れないまでに
その色眼鏡は曇っていて、それを通してでは神の言われる
真実が見えないままになっているのです。


イエスさまがそう言われているのに、その事実に耳は塞がれ、
覆いがかかった頭脳には響かない。
主の言葉を否定し続けて行く。

シャマー=聞きなさいと言う意味です。
従うと訳されている言葉は、本当は”聞きなさい”=シャマー
です。主の声を聞きなさい。主の声の中 主の声の下に
ぴったり入って、主の言われる通りを聞きなさいと主が
言われているのです。


18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、
一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。


19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、
またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も
小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこない
またそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

トラーの教えを破るどころか、それをもう終った教え、
無効ですと排除している事が何れだけ的外れな教えかが
はっきりと書かれています。
主の目には、主の言葉を曲げて、否定するそう言う事を
すれば天の国で最も小さいもの=神の目からは
価値の無い存在となってしまうと書かれています。

20 わたしは言っておく。あなたがたの義がトラー学者や
パリサイ人の義にまさっていなければ、
決して天国に、はいることはできない。

”神の義”=主の似姿、完了の業の実態 主の手柄だけが
カウントされるのです。
パリサイ人、トラー学者の義にまさる義=人の手により
努力で獲得しようとする義ではない。
神の完了の業神が取戻して下さった”神の似姿の人”の義が、
それにまさる”義”です。

神の義=完了の業=神の取戻して下さったオリジナルの人の
姿=実態のみで、人は神と関わりを持つ事が出来る。

自分の努力で下から上へ到達する様な事をしていれば、
神の側で100%与えて下さったその命をただ受け取り
生きる事が不明になる。的外れになる。

人の努力で獲得する清さ、聖さ、義=神の目には無意味。
何故なら、完了の業は神だけが出来る業だから。
人はそれに何も付け足す事が出来ない。
神の国=神の実態の中に入れない生き方になってしまう。

義=神の似姿の人を、主のデザイン通りに生きる事。
それが人に与えられたアボダー=礼拝と訳されている本当は
主の命を主のデザイン通りに生きる=それが礼拝。

続く