ガラテヤ5章 神の言葉の意味を的外れに受け取れば、喜び=神の中から外側の圏外へ飛び出す | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ5:2-12
2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。
もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに
用のないものになろう。

ここで、パウロが語っているのは何ですか?
”割礼”=救われるためにユダヤ人になるプロセライト
改宗する儀式=割礼を受ける事です。

そんな事で救いを得られるのなら、”キリストはあなたががに
用なしものになろう”=神の似姿=義とされる事が
他の手段で得られるなら、イエスさまの完了の業は全く
無意味と言う事です。
人間の努力で得る事の出来ない”完了の業”なのですから。
100%受けるしか方法がないのに、それを努力で獲得
しようとしているのですか?と言う事。

ですから、トラーを生きて、行動して”義”とされるのだと
言う発想自体、初めからズレていると言う事。

トラーは、神の造られた人間のデザイン、生き様。
それをイエスさまが丸ごと地上で再現したのです。
それは、義とされるためではなく、神の似姿の
人間の生き様=トラーだからです。

3 割礼を受けようとするすべての人たちに、
もう一度言っておく。そういう人たちは、トラーの全部を
行う義務がある。

この箇所を読んで、”そうだ、パウロは割礼を禁じている”
と教える教えが有ります。
でも違いますね。ヘブライ人、パウロがトラーを一点一画でも
否定する事など有り得ない、いいえパウロ自体が100%
トラーを生きて居た事聖書に書かれているからです。

義とされるため、救われるために、その目的のために、
”割礼”~改宗の儀式をする人達
それなら、全部トラーを全うする義務があると言っているのです。
しかし、全うしても義とされない。なぜなら”義”とされる事は
神の御業のみにかかっているのだから。

パウロの皮肉です!!!

4 “トラー”(行なう事により、自分の努力)によって
義とされようとするあなたがたは、
キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

トラーは、義とされるためにあるのではない。
しかし、トラーを生きる事は無意味なんて言ってないのです。
トラー以外の生き方は、神のデザインから外れる、的外れ
であるのですから。
神の言葉からスイッチオフ状態へ、エデン=神の中
喜びの中、本来の姿から意識が完全に圏外へ飛び出て
繋がらない状態にある人。

ここ よ~く考えて読み込む。異邦人には響かない
言葉だからです。ユダヤ人なら理解出来るのです。
トラーは永遠不変だと言う事を分かって理解しているから。
異邦人は理解してないのです。
終った教えと刷り込まれているから。
終ってしまう教えなど、神は一度も御口から発しないと
言う事が分かれば=永遠不変 一点一画も取り外さない
廃らないと書かれているではないですか?

婚姻契約=人の姿=生きる道=キリストそのもの。
主と顔を顔を合わせる、直の究極の親しい関係の姿
そのものを生きる。

それを、別の方法でアプローチ=偶像礼拝的に
主に関わるなら、関係の意味、究極の親しさの意味は
失われ、本質が失われ、見えなくなり、恵みから
落ちて、圏外=エデンの外=神の外側に意識が
飛び出てしまう。

宗教に様変わり、別の福音が出現して、
そして苦しむ事になるのです。

続く