記事がひとつ飛んでしまったので、入れ替えました。
前回の続きです。
5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義と
される望みを強くいだいている。
主が用意された、100%主の側の手柄、業を
ルアフ=霊=神により、私達は認識し、信仰=主の言われる通り
主のされた事、主が誰であるかをその通り 真実通り受け取り
”義”=神の似姿とされている望みを強く抱いている。
6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、
問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
”割礼”(アブラハムの割礼の事ではありません)=ユダヤ人に
改宗する儀式をしなくてもそんなの関係ない~!
改宗する儀式=“割礼”と呼ばれているその事をしても、
義とされる事とナンにも関係な~い!
アブラハムの割礼が無意味、用無し、意味が無いなどと
書かれてはいないのです。
ユダヤ人の中で、”プロセライト”=ユダヤ人になる改宗
儀式を行なわなければ天の国を相続出来ないと言う教えに
基づき行なわれていた”割礼”=当時の宗教慣用句でも
あるのです。
アブラハムの割礼の事ではないのです。この箇所は。
大事なのは、あの婚姻契約=トラーに描かれた
契約の愛=アハバによって働く、信仰=神の目から
見る通りを見る その事である。
7 あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、
真理にそむかせたのか。
誰が、主の言われる事とは、別の事を信じさせたのか?
妨害しているのか?
ユダヤ人になる改宗儀式をしなければ救われない=
文字は殺し、神の言葉は人を生かす。
文字=人の教えです。人造の教え。
神の目から見ないズレた神学。
8 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから
出たものではない。
主の言われる事ではない。人間の教え。混ぜ物の教え
偽の教え=元を辿れば蛇の嘘です。
9 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。
偽の教え=パン種は、マッツア=義とされている
罪が越された状態の人の中に入り込み、また以前の
死んだ人、死骸らしく命を生み出さない思考をする様に
膨れ上がる。
10 あなたがたはいささかもわたしと違った思いを
いだくことはないと、主にあって信頼している。
主の真実から逸れず、主の意図ピッタリに考えてほしい。
この一点=主の真理の中に留まる以外、一致なんて出来ない
事が分かります。
上辺の関係、いや深さが浅い関係。
主のデザイン通りの関係を互いに結ぶに至る体験が
無いまま行く。だから交わりの中で、飢え渇く
欠乏感を体験するのでしょう。在るべき状態からズレて
いるから。
しかし、あなたがたを動揺させている者は、
それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。
その通りです。主の言われる事と異なる事を言う人
それは、主の裁き=偽の教えから解放されるために
正しい主の判定が下される。主が退けて下さる偽の教え。
人がつまずきを起こさないために。
オセロのコマの様に、ある時全部主の真理だけで埋め尽くされる
互いに主を知ろうと言わない関係の世界が訪れる。
11
兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、
どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。
そうしていたら、十字架のつまずきは、
なくなっているであろう。
ユダヤ教の人達は、異邦人は救いを受けるために
ユダヤ人となる儀式を通らないと、天の国を相続出来ないと
教えていたのです。
だから、もしパウロがそんな事を言って居れば、彼らからは
迫害を受けないだろうと言っている、プラス十字架の
完了の業に対するつまずきは”反逆”は
無くなっているはずだと。
12 あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。
これは、あなたがたを惑わす人は、不具とは、
民から絶たれるべき除外されるべきと言う意味で
書かれています。
しかも、イエスさまが時々すごい”内角に直球を投球”する様な
事を言っていましたね。これ”パリサイ派”の人達の議論で
使われる語気の強い言葉なのです。パウロは一生涯パリサイ派
ガマリエル大先生の弟子として生きていた事が記録
されています。
パリサイ派=偽善者ではないのです。当時の善良なトラーを
生きる人々として世間に認められていた=中にはズレた人が居た、
その人達が聖書で戒められている、一部のパリサイ派の人と
言う事。
この点も多くの人々に誤解されている点です。
この様な箇所を読むと、誤解して性急に
そうだ”割礼”は終った!古い教えはもう無用だと言う
結論教えが出て来るのですね。
いいえ、パウロがここで何を話しているのかを
理解しなくては、誤解してしまい聖書の語る本来の意図、事実、
真実を曲げて行くのです。
そして結論は?
続く