神との歪んだ係わり、関係 偶像礼拝 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今まで、私達は、キリスト教と言う神学の目だけを通して、
レビ記の中にある、儀式を教えられて来ました。
古代は、旧約時代は、生け贄を捧げて、罪の許しの
代替えをし、十字架の後は、全て変わり、新しい教えが
来たのですと。

レビ記を読む前提が、初めからズレているので、
真相が見えず、神の真理が見えないだけなのです。
スタートポイントが、ズレたら、どこまでも、
ズレてしまうのです。

これ歴史の中のキリスト教だけではない
古代からの、全ての人達の間にある
問題でもあるのです。
詩編 預言書にも書いてある
”あわれみは好むが生け贄を望まない”
あなたから、何か欲しいなんて望んでないと、
言われる神の言葉。
しかし、私達は、生け贄=これにより、罪の許しを得て、
神の怒りをなだめるための、生け贄儀式と思っている。
しかも、そう訳されている、そう書かれているように
見えるからです。
この 思想は、どこから来ていると思いますか?
古代の異教の神々の偶像礼拝です

しかもこの、矛盾したように見える、パラドックス。
ヘブル書10では、
牛や山羊の血は罪を消す事が出来ない”と 
はっきり書いてあるではないのでしょうか?
しかも、完了の業以外に、一時的でも、代替えの物が、行為が
あるとするなら、それは、混乱をもたらす要因とも
なります。
一貫性がない、仮の物は、他のものでもOKと言う事にも
なるでしょう。

では何故、繰り返し、コバーンの捧げものが必要な訳?と
思いますね。

これを、説明するために、まず、偶像礼拝と言う事を、
今一度はっきり、把握する必要があります。

西洋人には、ちょっとピンと来ない、しかし、日本人や 
東洋人、アジア圏に住む人たちならピンと来る
コンセプトがあります。
あらゆる形の像を作り、街角や、家の軒先、レストランの
入り口などにありますね。
お寺などに参り、祈願、願掛け、または、懺悔などなど。
お百度参りなんてのも、その中の一つですね。

西洋人では、偶像礼拝とは、お金を愛するとか、
名声を愛するとか、果ては、パソコン、ネットのやり過ぎ
は 偶像礼拝とか。
ネットのやり過ぎは、偶像礼拝では、ありません。
ただ、バランスに欠けた、不健全な生活をしていると
いうだけの事でしょう。
それは、偶像礼拝と何にも関係ないのです。
では、偶像礼拝とは?
なぜ 生け贄など、神に捧げるのですか?
古代の中近東の人々が、異教の神への、生け贄を捧げる
行為の意味は何であったか。

なぜあなたは、神、または異教の神々を
礼拝するのですか?
その奥底の、究極の正直な本心、動機は、何なのでしょう
自分の手の業、捧げものにより、神の、怒りをなだめ、
喜ばせ、究極の目的、口には出さないけれど、奥底の本心は、
自分の欲しい祝福を、手に入れる

神との究極の親しさ、関係が、何より大事なのではなく
お金!名誉、健康、自分の欲、願望を満たす事です。

とってもシンプルな、毎日の人生の現実を、
皆、ひそかに、気がつかずに、やってしまっているのでは
ないのでしょうか

もっと神に仕え、礼拝すれば、神を喜ばせれば、
お目にかなうような事をするなら、
神が、怒りを鎮め、神が雨をもたらし、胎の実 
豊作 豊産=家畜、そして人も、たくさんもたらす。
どんどん それがエスカレートしていくのです。

あなたに仕えて、喜ばせますから、私にお恵み
出来るだけ、多く、沢山下さい!
この心の奥底にある、願望。
自分が求めている、自分の願い、手に入れたいものを
神に仕える事で、達成、手に入れる。
私を成功者にしてください。
勝ち組にしてください。
フォーカスは、自分!!!!
なんだか、聞いたようなストーリでは、ないのでしょうか?
献金たくさんすれば、祝福の倍返しなんて、この定義の
思考回路そのもでは、ないのでしょうか?

たくさん祈れば、聞き届けられるとか。
祈りも、10回では、30分では足りなくて、
11回だったら、神のお目にかない、良い訳ですか?
結局 下心 自分が中心、他の異教の神々に仕える
宗教となんら変わりない、図式。
神との関係なんて どうでもよいのです。
最後の方のランキングかもしれないです。

何故?神を礼拝するの?
何故祈るの?何故、捧げものをするの?

古代の中近東では、もっと具体的。
食べ物!!!を手に入れる。
食べ物があれば、家畜も養える。
肥沃な農作地、自分の土地から、わんさか食べものが
取れること!
それには、何が必要ですか?
雨です。雨の力!雨降ってほしい
豊作の神=バアル 異教の神のボス バアール
”バアール”は雲に乗って、そして、地を雨でたっぷりと潤し、
豊作をもたらすと、信じられていたのです。
雲=雨をもたらす=水=作物を実らせることができる
源だから、そう信じられていたのです。

アシュラ=多産の神 子宮を肥やす、
食物をもたらす神

もっともっと作物、食べ物があれば、家畜も多く
養う事が出来て、それが財産を、増やす、肥やすもとになる!
この思考回路です。
お金を愛する=成功を手に入れて、もっともっと
経済的に力を持ちたい。
自分の願いを、自由に叶える全てを、手に入れたい!

神に仕えて、礼拝して、それで、自分の得るべきものを
得たい。
失業したから、仕事を、与えて欲しい。
病気になった、その原因は、何か自分の人生で
神に対して、間違った事を、しているせいじゃなかろうか?
と思う。
果ては、神に見捨てられて、のろわれているかもと
思う心、その思考回路。
だから、一生懸命神に捧げ、仕えて、祈って、断食し
神の怒りをなだめアピールして、この状況を、
何とか変えなくてはと思う。

断食、祈り、捧げものを、熱心にして
神の怒りを、なだめ、受け入れてもらえれば
喜ばれ、そうすれば、問題も解決し、
自分の願いを手に入れる事が可能かもしれないと。

あれ?と思います。
これでは、異教の神に願い、請い、
アピールして、怒りをなだめ、喜ばせ 欲しいものを
手に入れるのと、何も変わりない、関わり合いでは
ないのでしょうか?

そんな意識で神に関わっていれば、
不安で混乱してしまう。
その意識こそが、ズレていると言う事に、まず気がつく
必要があるのです。

私達は、知らなくてはならない事を、すっかり
忘れています。
忘れているどころか、そんな意識、知識は、以前の
私の中には、ありませんでした。
聖書に書かれている、神の最大の約束、契約
その中身=トラーを、よく知らなかったからです。
私達は、永遠の神の破られる事ない、婚姻契約の中に
加えられ、安全に 守られているのです。
たとえ、状況がどうであろうとも。
神の愛は、わたしに対して、変わる事はない事。

メルキゼデクは、アブラムを迎えた時、異教の神に
仕える王とは違い、パンとワインで祝福したのです。
他の王は、アブラムに、即座に要求しましたね。
”人々をわたしに よこせ!”と。
メルキゼデクがアブラムに示した、最初の最初の会話、
交わした言葉は、ただただ愛の中にある、
体験だったのです。
あなたから、何か取ってやろう!利用しようなどと言う
下心ゼロ。
そして、契約の愛、自分の利益をもとめない愛
心の奥底から、ただただ相手を欲している 相手との
関係だけを望んでいる、そう言う愛です。
これが、本当の私達の神との関係の姿なのです。


本当の関係、愛は、契約の中にある、完全に守られた
安全な愛です。

私達が神の契約の中に、安全に保証されていると言う事実は
神からの表明なのです。

天の領域でなされた、完了の業は、どの時代にもどの人にも、
この地上の神の家で示される内容が、有効であることを
表明しているのです。

私達が、日々の中で、どのようにそれを生きるかを、
今神殿の儀式がない今 聖書を通して、知る事が出来ます。