キリスト教の神学は、神像は、三位一体と言う教えです。
一体と言いながら、それぞれが ばらばらに出現し、
別の特徴がある、別の働きをすると教えられています。
三人の人がいて、それぞれに、特徴があり、それぞれに
役割があり、それぞれに、働きが違う。
でも、原典聖書に書いてある、イスラエルの神は
エハッドの神。
一つ以上で”全く一つ”の神と、書かれているのです。
西洋神学で教える所とは、ちょっと違う事が書いてあるのです。
翻訳では、大分原語の意味が、覆い隠されていますが。
三つのバラバラな人が、それぞれ別の働きをしていると
思い込んでいる。
その人造の教えの、思索の枠の中だけでしか、考えられない。
聖書とは、異なる神像です。
神は、一つなのです。
どんな名前で呼ばれても、同じ神。
つまり、水蒸気、水=液体、氷=個体 どれも全部同じ水。
別々の形で現れていようとも、中身は同じ
一体の神なのです。
神が現れたら、それは イエスさまであろうと、
父であろうと、霊であろうと、全部 丸ごと
同じ神全部が一つなのです。
全部が現れているのです。
水は、水で、分解 分離出来ないように、
一つの神なのです。
切り離して考え続ける場合、見えない部分だらけに
なります。
真実が、歪んでしまいます。
真相が見えないままになります。
変な思想や、それに伴う、変な宗教的な行いが
出て来てしまいます。
人間の造り出した教えの枠の中で、前提がずれて、考え続け、
信じ続けても、見えない、分らない事だらけです。
しかし、聖書に書いてあるように、”一つの神”と言う
ここの事実から、ぶれなければ、神の言葉の理解へ
どんどん扉が開きます。見えて来ます。
神は、人間とは違うのです。
人間の理解を遥かに超えたお方を、神の言葉を通して
人間の言語で読んでいるので、人間的な思想、思索から
肉の目から眺めても、見えない部分が出て来るのです。
マタイ
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から
上がられた。
そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、
神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを
御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、
わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
これを、キリストの聖霊(別物ですか?)が下ったと
思い込んでいます。
それは、西洋人思想の、肉の目でみる読み方です。
ここで、何故こんな事が起こったのか、
”これはわたしの愛する子”とは、何でこんな事を
神が言ったのか、表明したのか、
その意味を知ると分ります。
”これは わたしの愛する子”と言う声は
どう言う意味なのでしょう?
ダビデの子である、イエス、このお方が、
イスラエルの国を 義の国を、建て直すその者!
この人だ!と言う、声明なのです。
全世界へ向けての、表明なのです。
”わたしの愛する子” この愛すると言う言葉は
ヘブライ語では、何と言う言葉で表されて
いるのでしょう?
”ダビー” 愛する=ダビデ王の、ダビーと言う
言葉なのです。
なぜ、それが重要なのか。
これは、王国、そして王と言う事を、理解しないと
分らない事です。
エジプトの王=ファラオ シーザー=ローマの王
異教の神を拝む王国の王達
これらの王国は、人を、破壊し、弱い者達、やもめ、孤児
そして、外国人、一番弱い立場にある、意見も
取り入れられずにいる人達を、虐げる様な国の王である、
そんな王ではないのだと言う表明。
メサイアと言う言葉を聞いたら、ヘブライ人は何を
思い浮かべるのでしょうか?
油注がれた者=王、預言者、メサイアに対して使う
言葉です。
どこの国の王だと分りますか?
神に選ばれ、油注がれた方=メサイア=王=
イスラエルの王国の王
ダビデの王国と同じ王国を建て上げる方
義が、シャロームが支配する、王国を、
建て上げる王と、言う意味で使われているのです。
ここ、今は短く書いていますが、この裏には、
詩編110 ヨシュア10に繋がる、深い解説があるのです。
これも、また別の記事に、まとめて書きたい内容です。
私達は、余りにも、西洋思想に色塗られた、枠の中から
眺める事ばかり、させられて来ました。
神は不変、神の霊は、どの時代にも信じる者の中に、
住まわれているのです。
今週火曜日から3日間に渡り、”シャブオート”の
祭りがありますが、その出来事=使徒2さえ、初めて
聖霊が下ったイベントと、多くの人は勘違いしています。
ヘブライ人なら、あの事件を、そう読み取らないのです。
シナイ山の、婚姻契約を受け取った、あの出来事と、
同じだと分るのです。
ミシュカン 神の幕屋に、天から降って来た、神の火を
思い起こすのです。
これは、別の解説になるので、別の記事に、書きたいと
思います。
さて、このマタイの箇所、第一、不思議ですよね。
神が神に語る。
イエスは、神ご自身で、神の霊はイエスの中に
存在しているのです。
父がイエスの中にいて、イエスも父の中にいるのにです。
ヨハネ17
人間的に考えては、説明のつかない事実です。
プラス、イエス=神=神の霊=父
一つで、切り離せないのです。
それだけ考えても、エハッドの神と言う現実を、
信じない、受けとらない思索は、
ヘレニズム 西洋神学思考であり、
この聖書に書かれている神像とは、異なる事を信じ続け、
そのズレた前提を知らないまま読んでは、
別の神像になると言う事なのです。
西洋神学の解説は、神を信じない人達にも、
ある意味理解出来る、普通の人でも分る解説です。
肉の目から眺めた、人間的な思索の枠を出ない
解説にすぎないからです。
でも、私達は、永遠の時空から、語られている
人とは違う、神の言葉を、読んでいるのです。
新しくされた人が、キリストの思考、思索を頂いて
読むのです。
そして、それは、ヘブライ思想、思索。
古代の人なら、神が一つ!全く一つと、分って
この事実を受けとる事が出来るので、西洋人のように、
バラバラな、神の働き、新しいキリストの聖霊なんて
書いていない事が、普通に分るのです。
第一、ヘブライ人には、バラバラな神なんて意識は、
ゼロです。
バラバラな、別々の働き、特徴がある神なんて
イコール 別の宗教の神と思うからです。
イエスは、神ではないのですか?
もちろん、人間として地上の体で現れて、
人間の間に住まわれていましたが、神です。
神=霊です。
神はどんな形でも、いつでも、どこでも自由に
現れることが出来るのです。
人間の想像を超えて、自由に働かれるお方です。
長くなるので 続く