2種類の祭司 地上の祭司と、天の領域の祭司  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヘブル書7:10-12

なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、
レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである。
もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能で
あったら―民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが―
なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と
呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が
立てられるのであるか。
祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。

聖書を、読んでいると、一寸待てよ。。。 
矛盾有りじゃないか?と、言うような箇所が
出て来ます。
神の言葉が変わったの?
新しい人と言われながら、完了の業は、天国行ってから
受けとるもの???いいえ、違います。
今です。全て今現在受けとっているのです。
天の現実を。
互いに相反する、箇所があると思われる場合、
その時こそ、注意して、何が本当に書いてあるのか
突き詰めて、真実を丁寧に、引き出す、見る
必要があるのです。

このヘブル7章など、トラーが変わったと、
西洋神学が、主張する根拠とされている箇所の一つですが、
トラー=神の言葉に只の一度も変更などないのです。
100%無し、あり得ないのです。
神が、永遠から永遠に、神ご自身と、神の言葉は、
変わらない!そう宣言されているからです。

人間の側での、読み間違い、誤解、誤訳、または原語、
文化、背景の知識に欠如したそのままで、数千年も過去の
古代のヘブライ語で書かれている書を、しかも、翻訳とまた、
さらに西洋神学のメガネを通して
読んでいるから、誤解を信じた上で、
そのまま読み続けている事が
起こっていると、言うだけの事なのです。

破棄=トラーを誤解して、間違った解釈をする
成就=トラーを正しく、解釈解き明かす
破棄=無くなる 破棄、廃棄などと言う言葉自体も
誤解、誤訳です。
これは、トラーを巡る、ラビ的慣用句だと
言う事を、知れば真相は分ります。
知らなければ、誤解の知識をもとに、何とでも、
勝手に、解説してしまうと言う事なのです。
神の言葉は、この世界の,物理、科学、天体の
法則が変わらないように、
永遠から永遠まで、変わらないのです。

神御自身が一度でも、ご自分の約束を変えられたら、
言葉を変えるような事があれば、その神は、
聖書に書いてある、イスラエルの神ではなく、
また、そんな変更が只の一度でもあれば、
どんな理由で、また次、神は何を変更されるか、
人類は、混乱を来すでしょうね。

人間と、神は全く違う事、また神御自身が、永遠から
永遠に変わらないと言われている、この宣言を、声明を
一日中 四六時中 考え、信じ続け、宣言し続けるだけで
全然違う神の姿、世界が見えて来る扉を開ける、
鍵になります。

アブラムが、メルキゼデクに、祝福で迎えられた時、
地上の祭司となるレビ族は、まだアブラムの腰の中、
しかも、レビ族が地上に生まれる、2世代も前の出来事です。

12節、祭司制に変更があれば、律法にも
必ず変更があるはずである。

この箇所の、”律法”と訳されている言葉は、ギリシャ語では、
ノモス
ノモスとは、原則、法則、一般的な教え,宗教的な決まり事、
または、神のトラーを指してまで、十羽一からげ的に
多種多様な意味、事柄に渡って広く、使われてしまっている
ギリシャ語です。
この言葉が、多様性のある別の意味の言葉に対して、
一緒くたに使われている事が、問題、混乱の要因です。

つまり、車と電車と、機関車と、船、果ては、工場、機械、
農作業道具と言う言葉を、外国語で 一つの言葉で
くくられた場合は、一体本当の意味は何だったのか、
2000年も過ぎた後には、意味不明になってしまいます。
それと、同じ事が、このノモス=全てを”律法”と言う言葉で、
訳されてしまって、大混乱と、翻訳聖書を読む人達に対して、
誤解を与え、また誤解に伴う聖書自体に対する、誤解の意識が
刷り込まれてしまったわけです。
当時の人は、ギリシャ語を読んでも、それを理解
していたのですが、現代のそのまた翻訳を読んでいる
人々には、通じない事柄になっているのです。

さて、ここで書かれている”律法”は、もちろん”トラー”の
神の言葉に関して使われている、言葉ではないのです

ここで書かれている、律法と訳された、ノモスは
原則”と訳すのがふさわしいと思います。

つまり、地上の祭司の原則は、
生まれです。
レビ族の生まれである事。
そして、大祭司も、アロンの家系の、生まれの人のみです。
この原則は、変わりません。
だから、ここで出て来る
メルキゼデク そうです、レビ記が書かれる前に
ちゃんと書かれている、この祭司とは何ぞや?と
言う事が書かれているわけです。
メルキゼデクは、生まれも親も家系も分らない、書かれて
いません。
だから、レビ族に属する祭司の家系ではないし、
レビ族が出て来る前に、すでに存在している祭司なのです。
イエスさまも、ダビデの系列、ユダ族に、属する事に
なるのです。

レビ族、アロンの家系に属さない、メルキゼデクと、
イエスさまなのです。
ここ、重要な箇所です。
ユダヤ人と言う、肉的生まれに関わらず、
神に造られた、神を信じる全ての人達は、
神の天の家、神の御座の前に
ユダヤ人に与えられた、同等の契約の中に、異邦人も
同等に、加えられている、その事実が、はっきりと、
語られているのです。
神には、生まれ 血筋、国籍により、分け隔てなど
ないからです。
同じ神の子供達です。

祭司メルキゼデク、その原則は、天の領域の神の家に属する、
肉的生まれの関係ない、果ては、救い主イエスさまに繋がる、
神の子全てに関する、事が書かれているからです。
生まれや、先祖代々受け継がれた、世襲制によらない
祭司の姿があるのだと、書かれているのです。
トラーの教えが変わったと、書かれているのではないのです。
なぜなら、天の祭司が別の筋に属するものだからです。

では、何の原則に伴い祭司になるのでしょう?
メルキゼデク、イエスさまに属する祭司は、
16節にあるように、
”彼は、肉につける戒めの律法によらないで、
朽ちることのない、命の力によって立てられたと、
あります。”

終る事のない、朽ちる事の命とは?
イエスの死にまで、従われたそして、永遠に死を打ち破り、
復活された、その力によりとあります。

これを、読んで、そうです。
私達は、まだ新しい体になってないとか、この体は死ぬと
思いますね。
だから、まだ不完全な完了の業=新しい人の姿、実態は
受け取っていないと、人間の神学は、教えます。
しかし、信じる者達は、死を経験しないとあるのです。
不思議な、事実。
つまり、もう信じる人は、実は天の中にいると言う
現実がある。
感じなくても、目で見えなくても。
そこに瞬時に移るだけの事、だから死を経験しないのです。
不思議です。
死ぬけど、死を体験しない事実。
ここは、よく考え続けないと分らない所です。
もう既に、私達は、朽ちない命 まことの命 
初めからある姿を頂いているのです。
この世界にありながら。
この世にありながら、この世のものではないと
イエスさまがヨハネ17章で、祈られたあの事実が
私達の本当の姿なのです。

1コリント15にある、”死よ、あなたの刺はどこにあるのか?”
です。

そして、この朽ちない命=新しい人の現実に、私達が
その命に移っている事実があるのです。

聖書を誤解して、読み続けるだろうと、分る箇所が
沢山出て来ます。
例えば、1 コリント 15:56を見ると
死のとげは罪である。罪の力は律法である。
もし、この律法=トラーであるとするなら、
罪の力=神の言葉 トラーであるとなります。
神の言葉、トラーは、罪の力なの?
全く、反聖書的宣言、分かります。
読んだだけで、すぐ変、誤訳だと分かる

これだけ読んでも、何か変 つじつまが合ってないと
分ります。
なぜなら、翻訳に不適切があることは 明らかです。
注意深く聖書を読んで、考えて行けば、あれ?変?なにか
違うんではないかと言う事が、翻訳聖書を読んでいても
見えて来るのです。


続く